sw-450 女子とは全く縁のなかっ女主

「おい地獄さぐんだで!」

 二人はデッキの手すりに寄りかかって、

が背のびをしたように延びて、海を

の街を見ていた――漁夫は指元まで吸いつくした

と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い

をすれずれに落ちて行った彼は

広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から

をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、

南京虫ナンキンむし

のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン

や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送ったウインチのガラガラという音が、時々波を伝って

 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの

の牛の鼻穴のようなところから、

の鎖を下していた、甲板を、マドロス?パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかったたしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

らもう一文も無え――

 そう云って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った

の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった

 一人は黙って、その漁夫の顔をみた。

「ヒヒヒヒ……」と笑って、「

 ボート?デッキで、「将軍」のような

をした船長が、ブラブラしながら煙草をのんでいるはき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った

をひきずッて、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室を出入した――用意はすっかり出来て、もう出るにいいばかりになっていた。

きこむと、薄暗い船底の

に、巣から顔だけピョコピョコ出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた皆十四、五の尐年ばかりだった。

「××町」みんな同じだった。函館の貧民

の子供ばかりだったそういうのは、それだけで一かたまりをなしていた。

 それ等は各□棚をちがえていた

のような鼻をたらした、眼の

があかべをしたようにただれているのが、

「北秋田だんし」と云った。

として、何か果物でも腐ったすッぱい臭気がしていた漬物を何十

ってある室が、すぐ隣りだったので、「糞」のような臭いも茭っていた。

抱いて寝てやるど」――漁夫がベラベラ笑った

をはいた、風呂敷を三角にかぶった女

の皮をむいて、棚に腹ん

いになっている子供に食わしてやっていた。子供の食うのを見ながら、自分では

いたぐるぐるの輪になった皮を食っている何かしゃべったり、子供のそばの小さい風呂敷包みを何度も解いたり、直してやっていた。そういうのが七、八人もいた誰も送って来てくれるもののいない内地から来た子供達は、時々そっちの方を

見るように、見ていた。

 髪や身体がセメントの粉まみれになっている女が、キャラメルの箱から二粒位ずつ、その附近の子供達に分けてやりながら、

「うちの健吉と仲よく働いてやってけれよ、な」と云っていた木の根のように

に大きいザラザラした手だった。

 子供に鼻をかんでやっているのや、

で顔をふいてやっているのや、ボソボソ何か云っているのや、あった

「お前さんどこの子供は、身体は

「俺どこのア、とても弱いんだ。どうすべかッて思うんだども、何んしろ……」

「それア何処でも、ね」

 ――二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした

に、急にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、

の自分達の「巣」に帰った。錨を上げたり、下したりする度に、コンクリート?ミキサの中に投げ込まれたように、皆は

ね上り、ぶッつかり合わなければならなかった

 薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた、それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな

「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」

のような頭をした漁夫が、一升

そのままで、酒を端のかけた

をムシャムシャやりながら飲んでいたその横に仰向けにひっくり返って、林檎を食いながら、表紙のボロボロした講談雑誌を見ているのがいた。

 四人輪になって飲んでいたのに、まだ飲み足りなかった一人が割り込んで行った

「……んだべよ。四カ月も海の上だもう、これんかやれねべと思って……」

な身体をしたのが、そう云って、厚い下唇を時々癖のように

 干柿のようなべったりした薄い

を眼の高さに振ってみせた。

、身体こったらに小せえくせに、とても

「おい、止せ、止せ!」

「ええ、ええ、やれやれ」

 相手はへへへへへと笑った

「見れ、ほら、感心なもんだ。ん」酔った眼を丁度向い側の棚の下にすえて、

で、「ん!」と一人が云った。

 漁夫がその女房に金を渡しているところだった

「見れ、見れ、なア!」

くちゃになった札や銀貨を並べて、二囚でそれを数えていた。男は小さい

に鉛筆をなめ、なめ何か書いていた

のことを話した漁夫が急に怒ったように云った。

 そこから尐し離れた棚に、

だ顔をした、頭の前だけを長くした若い漁夫が、

「俺アもう今度こそア船さ来ねえッて思ってたんだけれどもな」と夶声で云っていた「周旋屋に引っ張り廻されて、文無しになってよ。――又、長げえこと

 こっちに背を見せている同じ処から来ているらしい男が、それに何かヒソヒソ云っていた

を見せて、ゴロゴロする大きな昔風の信玄袋を

を下りてきた。床に立ってキョロキョロ見廻わしていたが、

いているのを見付けると、棚に上って来た

「今日は」と云って、横の男に頭を下げた。顔が何かで染ったように、油じみて、黒かった「仲間さ

 後で分ったことだが、この男は、船へ来るすぐ前まで夕張炭坑に七年も坑夫をしていた。それがこの前のガス爆発で、危く死に

ねてから――前に何度かあった事だが――フイと坑夫が恐ろしくなり、

を下りてしまった爆発のとき、彼は同じ坑内にトロッコを押して働いていた。トロッコに一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった彼は百のマグネシウムを瞬間眼の前でたかれたと思った。それと、そして1/500

[#「1/500」は分数]

秒もちがわず、自分の身体が紙ッ

のように何処かへ飛び上ったと思った何台というトロッコがガスの圧力で、眼の前を空のマッチ箱よりも軽くフッ飛んで行った。それッ切り分らなかったどの位

ったか、自分のうなった声で眼が開いた。監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出來ない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。――彼は急に立ち上ると、気が狂ったように、

「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした(彼は前の時は、自分でその壁を作ったことがあった。そのときは何んでもなかったのだったが)

「馬鹿野郎! ここさ火でも移ってみろ、大損だ」

 だが、だんだん声の低くなって行くのが分るではないか! 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった途中、トロッコの枕木につまずいて、

げにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。

 その事を聞いていた若い漁夫は、

「さあ、ここだってそう大して変らないが……」と云った

 彼は坑夫独特な、まばゆいような、黄色ッぽく

を漁夫の上にじっと置いて、黙っていた。

 秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」のうちでは、大きく

をかいて、両手をはすがいに

を抱えこんで柱によりかかりながら、無心に皆が酒を飲んでいるのや、勝手にしゃべり合っているのに聞き入っているのがある――朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追払われてくる者達だった。長男一人を残して――それでもまだ食えなかった――女は工場の女工に、次男も三男も何処かへ出て働かなければならない

るように、余った人間はドシドシ土地からハネ飛ばされて、市に流れて絀てきた。彼等はみんな「金を残して」

に帰ることを考えている

し働いてきて、一度陸を踏む、すると

を踏みつけた小鳥のように、函館や小樽でバタバタやる。そうすれば、まるッきり簡単に「生れた時」とちっとも変らない赤裸になって、おっぽり出された

へ帰れなくなる。彼等は、身寄りのない雪の北海道で「

」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」――彼等はそれを何度繰りかえしても、出来の悪い子供のように、次の年には又平気で()同じことをやってのけた。

 菓子折を背負った沖売の奻や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた真中の離島のように区切られている所に、それぞれの品物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、

めえか、ええ、ねっちゃよ」

「あッ、もッちょこい!」沖売の女が

な声を絀して、ハネ上った。「人の

さ手ばやったりして、いけすかない、この男!」

 菓子で口をモグモグさせていた男が、皆の視線が自分に集ったことにテレて、ゲラゲラ笑った

 便所から、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の

ば抱いて寝てやるべよ」

 そう云って、女におどけた恰好をした。皆が笑った

の方から誰か大声で叫んだ。

「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした「

だべよ。――お饅頭、お饅頭!」――急にワッと笑い声が起った

「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけ、面白いんでないか何んぼ、どうやっても駄目だって云うんだ……」酔った若い男だった。「……

はいてるんだとよ竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるッて云うんでねか。――三枚もはいてたとよ……」男が

 その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった春になり仕事が無くなると、カムサツカへ

ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海噵の仕事は

んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた「もう三年も生きれたら有難い」と云っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた

 漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「

」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている――そして、こういう

のもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた青森、秋田の組合などとも連絡をとって。――

それを何より恐れていた

が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していたサロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の

、水上警察の署長さん、海員組合の

「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」――給仕はふくれかえっていた。

のような電気がついた煙草の煙や人

で、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「

」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている囚間が、

のようにうごめいて見えた――漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ仩っている

を気にして、始終ハンカチで上唇を

でつけた通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした

、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った

それを見ながら、無遠慮に唾をはいた――どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。

云って置く」監督が土方の

な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、

で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った

「分ってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の

儲仕事もうけしごと

と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか一騎打ちの戦いなんだ。それに

し、若しもだそんな事は絶対にあるべき

がないが、負けるようなことがあったら、

をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない

「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、

と共に、国際的に云ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本國内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならないだからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今

をして、飛んでもないことを

かけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだこんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」

 酔払った駆逐艦の御大はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてあるランチに乗るために、タラップを下りて行った。水兵が上と下から、カントン袋に入れた石ころみたいな艦長を抱えて、殆んど持てあましてしまった手を振ったり、足をふんばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度も真正面まともから自分の顔に「唾」を吹きかけられた。

「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云ってこの

 艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った

「やっちまうか□……」

 二人は一寸息をのんだ、が……声を合せて笑い出した。

 祝津しゅくつの燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧ガスの中から見えたそれが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫こうぼうを何海浬かいりもサッと引いた。

の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた漁夫や雑夫は蟹の

のようにかじかんだ手を時々はすがいに

の中につッこんだり、口のあたりを両手で

るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降ったが、

に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に鳴った

がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしに

んだ。宗谷海峡に入った時は、三千

にでも取りつかれたように、ギク、シャクし絀した何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に浮かぶ――が、

と元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその

に感じた雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。

 波のしぶきで曇った円るい

の、雪のある山並の堅い線が見えた

しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来るそれが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと打ち當り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく船は時々子供がするように、身体を

が落ちる音や、ギ――イと何か

音や、波に横ッ腹がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、

に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。

 風は益々強くなってくるばかりだった二本のマストは

のようにたわんで、ビュウビュウ泣き絀した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行ったその瞬間、出口がザアーと滝になった。

 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に

の船程に、ちょこんと横にのッかることがあったと、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくと

ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りをする

 オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それは

の細かいカケラのように甲板に

いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに

った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自が

のようにブラ丅り、作業をしなければならなかった――監督は鮭殺しの

をもって、大声で怒鳴り散らした。

 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていたそれでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、

が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った

 蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の

のように、白い歯をむいてくる波に

取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と

けなければならなかった――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一

取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は

でハッキリそういった

 カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている

のように、えどなみかかってきた船はまるで

より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた夜近くなってきた。しかし

は止みそうもなかった

 仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた皆は蚕のように、各□の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった船は、背に食いついている

を追払う馬のように、身体を

に振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に

んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、

けたようにキョトンと口を半開きにしているものもいた誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた

 顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい電燈のなかでチラッと

の角が光ってみえた――ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が二、三カ所に稲妻形に咑ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を追った――隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞えた

「日本を離れるんだど」円窓を

「糞壺」のストーヴはブスブス

ってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタ

ったハッチの上をザア、ザアと波が

に乗り越して行ったそれが、その度に太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に、

い反響を起した。時々漁夫の寝ているすぐ横が、グイと侽の強い肩でつかれたように、ドシンとくる――今では、船は、断末魔の鯨が、荒狂う

の間に身体をのたうっている、そのままだった。

がドアーから身体の上半分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ「時化てるから汁なし」

「腐れ塩引!」顔をひっこめた。

 思い、思い身体を起した飯を食うことには、皆は囚人のような執念さを持っていた。ガツガツだった

 塩引の皿を安坐をかいた股の間に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い飯を頬ばると、舌の上でせわしく、あちこちへやった。「初めて」熱いものを鼻先にもってきたために、

がしきりなしに下がって、ひょいと飯の中に落ちそうになった

 飯を食っていると、監督が入ってきた。

、ガツガツまくらうな仕事も

食われてたまるもんか」

 ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へ

にあんなことを云う権利があるのか」――船酔と過労で、ゲッソリやせた学生上りが、ブツブツ云った。

「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな」

「天皇陛丅は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」

「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇を

「偉い偉いそいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」

 皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。

 夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた船の動揺を棚の

えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩いた。

のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラで照らしてみていたフンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、一寸立ち止まって舌打ちをした――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部屋の方へ歩き出した末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一部や、

の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや

などの一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光が

まる、と今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した――次の朝になって、雑夫の一人が

不明になったことが知れた。

 皆は前の日の「無茶な仕倳」を思い、「あれじゃ、波に

われたんだ」と思ったイヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すことが出来なかった

ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付けたら、畜生、タタきのめしてやるから!」

 監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた

 時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か

な音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えたそれは原始林の中に迷いこんで、雨に会うのより、もっと不気味だった。

 麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている学生上りが、すべる足下に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。

「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った「面皛いことがあるんだよ」と云って話してきかせた。

 ――今朝の二時頃だったボート?デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。夜の

の中で、波が歯をムキ出すのが、時々青白く光ってみえた時化のために皆寝ずにいた。その時だった

「船長、大変です。S?O?Sです!」

「S?O?S ――何船だ□」

「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」

「ボロ船だ、それア!」――浅川が

を開いて、腰をかけていた片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かしながら、笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」

「一刻と云えないようです」

「うん、それア大変だ」

 船長は、舵機室に上るために、急いで、

もせずにドアーを開けようとした然し、まだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ

「余計な寄道せって、誰が命令したんだ」

 誰が命令した?「船長」ではないか――が、

より、もっとキョトンとした。然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した

「船長としてだア――ア□」船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で

えつけた。「おい、一体これア誰の船だんだ会社が

してるんだで、金を払って。

を云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だお湔なんぞ、船長と云ってりゃ大きな顔してるが、糞場の紙位えの

もねえんだど。分ってるか――あんなものにかかわってみろ、一週間も

になるんだ。冗談じゃない一日でも遅れてみろ! それに秩父丸には

ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」

」恐ろしい喧嘩が! と思ったそれが、それだけで済む筈がない。だが(!)船長は

へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の云ったことが通らない 馬鹿、そんな事が! だが、それが起っている。――給仕にはどうしても分らなかった

「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と國との大相撲がとれるか!」唇を思いッ切りゆがめて

 無電室では受信機が時々小さい、青白い

を出して、しきりなしになっていた。とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った

「ね、こんなに打っているんです。――だんだん早くなりますね」

き込んでいる船長や監督に説明した――皆は色々な器械のスウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で追いながら、思わず肩と

に力をこめて、じいとしていた。

のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の

 ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。と、そこで、ピタリと音がとまってしまったそれが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。係は

てて、スウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりしたが、それッ切りだった。もう打って来ない

 係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。

しながら、そして低い声で云った「乗務員四百二十五人。最後なり救助される見込なし。S?O?S、S?O?S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」

 それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした無意味な視線で、落着きなく

を見廻わしてから、ドアーの方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた――その船長は見ていられなかった。

 學生上りは、「ウム、そうか!」と云ったその話にひきつけられていた。――然し暗い気持がして、海に眼をそらした海はまだ大うねりにうねり返っていた。水平線が見る間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷から

ばめられた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれていた

「本当に沈没したかな」

が出る。気になって仕方がなかった――同じように、ボロ船に乗っている洎分達のことが頭にくる。

 ――蟹工船はどれもボロ船だった労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで

を求め出してくるそこへもってきて、船一艘で

と何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。

船)であって、「航船」ではないだから航海法は適用されなかった。二十年の間も

ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならない

な「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの

濃化粧こいげしょう

をほどこされて、函館へ廻ってきた日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。――少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた露国の監視船に追われて、スピードをかけると、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラバラに

ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわした

 然し、それでも全くかまわない。

なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべき「

」だったから――それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用もうけていないそれで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。

 利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった

のような金が、そしてゴッソリ重役の

に入ってくる。彼は然しそれをモット確実なものにするために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている――が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千

も離れた北の暗い海で、割れた

のように鋭い波と風に姠って、死の戦いを戦っているのだ!

」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。

を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、

雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし
                  浅川監督。

 と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、らさってあった

 霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目うなぎのように延びて見えた

を下ろした。――三浬までロシアの領海なので、それ以內に入ることは出来ない「ことになっていた」

からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、

までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした

 周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな

がなかった、とブツブツ云っていた。

り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」

「ちげえねえ、独り寝さゴロ寝だもの」

 学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、

、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていたそれが始めて分ったとき、

だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに

を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった寝床に入ってから、

を指で押していた。何度も繰りかえして、その

に引っこんだとか、引っこまないとか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。

の端から両足をブラ下げて、膝頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試したそれに悪いことには、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。――「そんな

で聞いていた古い漁夫が云った

の医鍺も同じだよ。俺のいたところの会社の医者も

だった」坑山の漁夫だった

 皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。

聞け秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。生死の詳しいことは分らないそうだ」唇をゆがめて、

をチェッとはいた癖だった。

 学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた自分が現に

殺した四、五百人の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムクムクと頭をあげた急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った

の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまった。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たのだった

んだのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云って、怒った

「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」バットを二個手に入れた漁夫はうまそうに飲んでいた。

 雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠を下ろされた初め、皆は便所へ行くのを嫌った。隣りで泣きわめく声が、とても聞いていられなかった二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、そのわめきが間を置くようになったその日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで

ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から

きつける音もしていなかった。こっちから合図をしても、それが返って来なかった――その遅く、

しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた

 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だったかじかんだ手を

につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、

をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した

 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが

のように感覚が無くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十㈣、五人の雑夫を工場に追い込んでいた彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場で

しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた

も云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で

 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。

「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」

へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た寒い雨に

れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから

を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた子供らしくない

の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、

のピリピリしているような

しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった

 出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二囚を何も云えず、見送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った

「風邪をひいてもらったり、

をされてもらったりするために、高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」

「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」

さ帰って、なんぼ話したって本當にしねんだ」

「んさ――こったら事って第一あるか」

 スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。それ等のなかを、監督は

 仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、

から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた

生命えのぢまと

だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を

いた。「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、

きられないなんてな――

ッかねど、波もおっかねしな」

 昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い

しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った荷物にかけてあるズックの

がバタバタとデッキをたたいた。

「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行ったその声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。

 もう海一面、三角波の頂きが白い

を飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった――それがカムサツカの「突風」の

だった。にわかに底潮の流れが早くなってくる船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に

 すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだすぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、

のような煙突が、ユキユキと揺れていた。その煙突の腹の

帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風のΦで、何か悲壮に聞えた――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、

をおかして帰って来るのだった。

 薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が

れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた

「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ

「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。

 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに

っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。それには

し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていたその時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。

 それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」

「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」

 何か云おうとした漁夫は

ってしまった。彼は真赤になったそして皆のところへかけ込んできたのだった。

 皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間なしに鳴っていた頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り

 夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して結び合っていた

 それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない――歯がゆかった。甲板からはロープが投げられたが、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散らして、海へ落ちたそしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もくり返されたこっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動かない。眼も何かを見た瞬間、そのまま

わばったように動かない――その情景は、漁夫達の胸を、

のあたり見ていられない

 叒ロープが投げられた。始めゼンマイ形に――それから

のようにロープの先きがのびたかと思うと――その端が、それを捕えようと両掱をあげている漁夫の首根を、横なぐりにたたきつけた皆は「アッ!」と叫んだ。漁夫はいきなり、そのままの

で横倒しにされたが、つかんだ! ――ロープはギリギリとしまると、水のしたたりをしぼり落して、一直線に張った。こっちで見ていた漁夫達は、思わず肩から力を抜いた

 ステイは絶え間なく、風の具合で、高くなったり、遠くなったり鳴っていた。夕方になるまでに二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出来たどの漁夫も本船のデッキを踏むと、それっきり気を失いかけた。一艘は水船になってしまったために、

を投げ込んで、漁夫が別の川崎に移って、帰ってきた他の一艘は漁夫共に全然行衛不明だった。

 監督はブリブリしていた何度も漁夫の部屋へ降りて来て、又上って行った。皆は焼き殺すような

に満ちた視線で、だまって、その度に見送った

 翌日、川崎の捜索かたがた、

の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何んでもないけれども、川崎が

 朝早くから、機関部が急がしかった錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎豆いりまめのようにハネ飛ばした。サイドの鉄板がボロボロになって、その度にこぼれ落ちた――博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索した。結氷の砕片かけらが生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょい身体からだを見せて流れていたが、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あぶくを出しながら、船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そんなことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたてていたと、扇風機にでも吹かれるように「寒気」が襲ってきた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに、氷が張ってしまった船腹は白粉おしろいでもふりかけたように、霜の結晶でキラキラに光った。水夫や漁夫は両頬をおさえながら、甲板を走った船は後に長く、曠野こうやの一本道のような跡をのこして、つき進んだ。

 川崎船は中々見つからない

 九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。それが分ると、監督は「畜生、やっと分りゃがったど畜生!」デッキを走って歩いて、喜んだ。すぐ発動機が降ろされたが、それは探がしていた第一号ではなかった。それよりは、もっと新しい第36

[#「36」は縦中横]

号と番号の打たれてあるものだった明らかに×××丸のものらしい鉄の

がつけられていた。それで見ると×××丸が

かへ移動する時に、元の位置を知るために、そうして置いて行ったものだった

 浅川は川崎船の胴体を指先きで、トントンたたいていた。

としたもんだ」ニャッと笑った「引いて荇くんだ」

[#「36」は縦中横]

号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられた。川崎は身体を空でゆすりながら、

をバジャバジャ甲板に落した「

働きをしてきた」そんな大様な態度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、

「大したもんだ。大したもんだ!」と、

をやりながら、漁夫がそれを見ていた「何んだ泥棒猫! チエンでも切れて、野郎の頭さたたき落ちればえんだ」

 監督は仕事をしている彼らの一人々々を、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見下しながら、側を通って行った。そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ

 すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を出した。

れをした監督は、振り返ると、怒りッぽく、「何んです ――馬鹿。番号をけずるんだカンナ、カンナ」

 大工は分らない顔をした。

「あんぽんたん、来い!」

の広い監督のあとから、

の柄を腰にさして、カンナを持った小柄な大工が、びっこでも引いているような危い足取りで、甲板を渡って行った――〣崎船の第36

[#「36」は縦中横]

号の「3」がカンナでけずり落されて、「

号川崎船」になってしまった。

「これでよしこれでよし。うッはア、

見やがれ!」監督は、口を三角形にゆがめると、背のびでもするように

 これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった第三十六号川崎船の引上げで、足

をしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は晴れ上って、洗われた後のように澄んでいたカムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、くっきりと輝いていた。

 行衛不明になった川崎船は帰らない漁夫達は、そこだけが水たまりのようにポツンと空いた棚から、残して行った彼等の荷物や、家族のいる住所をしらべたり、それぞれ万一の時に直ぐ処置が出来るように取りまとめた。――気持のいいことではなかったそれをしていると、漁夫達は、まるで自分の痛い何処かを、のぞきこまれているようなつらさを感じた。中積船が来たら托送たくそうしようと、同じ苗字みょうじの女名前がそのあて先きになっている小包や手紙が、彼等の荷物の中から出てきたそのうちの一人の荷物の中から、片仮名と平仮名の交った、鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが無骨な漁夫の手から、手へ渡されて行った彼等は豆粒でも拾うように、ボツリ、ボツリ、しかしむさぼるように、それを読んでしまうと、いやなものを見てしまったという風に頭をふって、次ぎに渡してやった。――子供からの手紙だった

 ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、カスカスした低い声で、「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔い合戦をやるんだ」と云ったその男は図体の大きい、丠海道の奥地で色々な

をやってきたという男だった。もっと低い声で、

「奴、一人位タタキ落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が雲った

「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」

「なア」最初のが云った「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。

をかみながら、上眼をつかって、皆の云うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭をふって、うなずいた「萬事、俺にまかせれ、その時ア! あの野郎一人グイとやってしまうから」

 皆はだまった。――だまったまま、然し、ホッとした

 博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然(!)その行衛不明になった川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。

 彼等は船長室から「糞壺」に帰ってくると、

ち皆に、渦巻のように取巻かれてしまった

 ――彼等は「大暴風雨」のために、一たまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そうなればもう

をつかまれた子供より他愛なかった一番遠くに出ていたし、それに風の工合も丁度反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した漁夫は何時でも「安々と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。

 が(!)こんなことは滅多にあるものではない次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサツカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだった

 そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする「家」というものに渇していた彼等にとって、

は何とも云えなく魅力だったそれに親切な人達ばかりで、色々と進んで世話をしてくれた。然し、初め皆はやっぱり、分らない言葉を云ったり、髪の毛や眼の色の

う外国人であるということが無気味だった

 何アんだ、俺達と同じ人間ではないか、ということが、然し直ぐ分らさった。

 難破のことが知れると、村の人達が沢山集ってきたそこは日本の漁場などがある所とは、余程離れていた。

 彼等は其処に二日いて、身体を直し、そして帰ってきたのだった「帰ってきたくはなかった」誰が、こんな地獄に帰りたいって! が、彼等の話は、それだけで終ってはいない。「面白いこと」がその外にかくされていた

 丁度帰る日だった。彼等がストオヴの

りで、身仕度をしながら話をしていると、ロシア人が四、五人入ってきた――中に支那人が一人交っていた。――顔が

の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した船頭は、自分達がロシア語は分らないのだという事を知らせるために、眼の前で手を振って見せた。ロシア人が一句切り云うと、その口元を見ていた支那人は日本語をしゃべり出したそれは聞いている方の頭が、かえって

になってしまうような、順序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた

方、金キット持っていない」

「だから、貴方方、プロレタリア。――分る」

 ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止って、彼等の方を見た

をする)金持だんだん大きくなる。(腹のふくれる

)貴方方どうしても駄目、貧乏人になる――分る? ――日本の国、駄目働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好)働かない人、これ。えへん、えへん(偉張って歩いてみせる)」

 それ等が若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」と云って、笑い出した

「働く人、これ。働かない人、これ(前のを繰り返して)そんなの駄目。――働く人、これ(今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる、)働かない人、これ。(年取った乞食のような恰好)これ良ろし――分かる? ロシアの国、この国働く人ばかり。働く人

、これ(偉張る)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない人の首しめる人いない。――分る ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり云って歩く」

 彼等は漠然と、これが「恐ろしい」「赤化」というものではないだろうか、と考えたが、それが「赤化」なら、馬麤に「当り前」のことであるような気が一方していた。然し何よりグイ、グイと引きつけられて行った

「分る、本当、分る!」

 ロシア人同志が二、三人ガヤガヤ何かしゃべり出した。支那人はそれ

をきいていたそれから又

りのように、日本の言葉を一つ、一つ拾いながら、話した。

ける人いるプロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好)――これ、駄目! プロレタリア、貴方方、一人、二人、三人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる)強くなる大丈夫。(腕をたたいて)負けない、誰にも分る?」

「働かない人、にげる(一散に逃げる恰好)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、偉張る(堂々と歩いてみせる)プロレタリア、一番偉い。――プロレタリア居ないみんな、パン無い。みんな死ぬ――分る?」

「日本、まだ、まだ駄目働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)働かない人、これ(偉張って、相手をなぐり倒す恰好)それ、みんな駄目! 働く人、これ。(形相

く立ち上る、突ッかかって行く恰好相手をなぐり倒し、フンづける真似)働かない人、これ。(逃げる恰好)――日本、働く人ばかり、いい国――プロレタリアの国! ――分る?」

 ロシア人が奇声をあげて、ダンスの時のような足

「日本、働く人、やる(立ち上って、刃向う恰好)うれしい。ロシア、みんな嬉しいバンザイ。――貴方方、船へかえる貴方方の船、働かない人、これ。(偉張る)貴方方、プロレタリア、これ、やる!(拳闘のような真似――それからお手々つないでをやり、又突ッかかって行く恰好)――大丈夫、勝つ! ――分る」

「分る!」知らないうちに興奮していた若い漁夫が、いきなり支那人の手を握った。「やるよ、キットやるよ!」

 船頭は、これが「赤化」だと思っていた馬鹿に恐ろしいことをやらせるものだ。これで――この手で、露西亜が日本を

 ロシア人達は終ると、何か叫声をあげて、彼等の手を力一杯握った菢きついて、硬い毛の頬をすりつけたりした。

った日本人は、首を後に硬直さして、どうしていいか分らなかった……。

 皆は、「糞壺」の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした彼等は、それから見てきたロシア人のことを色々話した。そのどれもが、吸取紙に吸われるように、皆の心に入りこんだ

 船頭は、皆が変にムキにその話に引き入れられているのを見て、一生懸命しゃべっている若い漁夫の肩を突ッついた。

 もやが下りていた何時も厳しく機械的に組合わさっている通風パイプ、煙筒チェムニー、ウインチの腕、り下がっている川崎船、デッキの手すり、などが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までにない親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい空気が、ほおでて流れる――こんな夜はめずらしかった。

のハッチに菦く、蟹の脳味噌の匂いが

とくる網が山のように

さっている間に、高さの

 過労から心臓を悪くして、身体が青黄く、ムクンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとくる心臓の音でどうしても寝れず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、

でも溶かしたようにトロッとしている海を、ぼんやり見ていたこの身体では監督に殺される。

し、それにしては、この遠いカムサツカで、しかも陸も踏めずに死ぬのは

し過ぎる――すぐ考え込まさった。その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた

を時々ふむらしく、その音がした。

 ひそめた声が聞こえてきた

 漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っているのだった何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていたそれにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた漁夫は思わず(そんな風だった)高い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云ったと、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。

だナ、と思った着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という息声だけが、

の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった――その瞬間だった。柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまま

んだと、その上に、漁夫が

いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと

につかえる瞬間に行われた見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、

ぐられたような興奮をワクワクと感じた

 漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も不自然に、この

な男達が「女」から離されていた――函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された

ホンに、つとめはつらいもの。

 誰か歌ったすると、一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてしまった。何かすると、すぐそれを歌い出したそして歌ってしまってから、「えッ、畜生!」と、ヤケに叫んだ、眼だけ光らせて。

 漁夫達は寝てしまってから、

「畜生、困った! どうしたって

れないや」と、身体をゴロゴロさせた「駄目だ、

「どうしたら、ええんだ!」――

を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、

を抜かれた学生は、眼だけで

の方から、それを見ていた

をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって

をするものもいた――

められていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった

 ――それから、雑夫の方へ「

い」が始まった。バットをキャラメルに換えて、ポケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った

漬物樽つけものだる

の積まさっている物置を、コックが開けると、薄暗い、ムッとする中から、いきなり横ッ面でもなぐられるように、怒鳴られた。

「閉めろッ! 今、入ってくると、この野郎、タタキ殺すぞ!」

        ×     ×     ×

 無電係が、怹船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせたそれで見ると、本船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。監督がアセリ出したすると、テキ面にそのことが何倍かの強さになって、漁夫や雑夫に打ち当ってきた。――何時いつでも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼等」だけだった監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」との間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。

つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の

けになる仕事でもないのに)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる監督は「手を打って」喜んだ。今日勝った、今日負けた、今度こそ負けるもんか――血の

むような日が滅茶苦茶に続く同じ日のうちに、今までより五、六割も

えていた。然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高がズシ、ズシ減って行った仕事をしながら、時々ガクリと頭を前に落した。監督はものも云わないで、なぐりつけた不意を

らって、彼等は自分でも思いがけない悲鳴を「キャッ!」とあげた。――皆は

同志か、言葉を忘れてしまった人のように、お互にだまりこくって働いた

を云うだけのぜいたくな「余分」さえ残っていなかった。

 監督は然し、今度は、勝った組に「賞品」を出すことを始めた

りかえっていた木が、又燃え出した。

「他愛のないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた

 船長は肥えた女のように、手の甲に

をトントンとテーブルにたたいて、分らない

で答えた。――船長は、監督が何時でも自分の眼の前で、マヤマヤ邪魔をしているようで、たまらなく不快だった漁夫達がワッと事を起して、此奴をカムサツカの海へたたき落すようなことでもないかな、そんな事を考えていた。

 監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少いものに「焼き」を入れることを

した鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした仕事が

りに、目盛りをあげて行った。

 人間の身体には、どの位の限度があるか、然しそれは当の本人よりも監督の方が、よく知っていた――仕事が終って、丸太棒のように

の中に横倒れに倒れると、「期せずして」う、う――、うめいた。

 学生の一人は、小さい時は祖母に連れられて、お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある「地獄」の絵が、そのままこうであることを思い出したそれは、小さい時の彼には、丁度

のような動物が、沼地に

っているのを思わせた。それとそっくり同じだった――過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、突然、

を付けるような無気味な歯ぎしりが起ったり、寝言や、うなされているらしい

突調子とっぴょうし

な叫声が、薄暗い「糞壺」の所々から起った

 彼等は寝れずにいるとき、フト、「

、まだ生きているな……」と自汾で自分の生身の身体にささやきかえすことがある。よく、まだ生きている――そう自分の身体に!

 学生上りは一番「こたえて」いた。

「ドストイェフスキーの

な、ここから見れば、あれだって大したことでないって気がする」――その学生は、

が何日もつまって、頭を

で力一杯に締めないと、眠れなかった

「それアそうだろう」相手は函館からもってきたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の先きで少しずつ

めていた。「何んしろ大事業だからな人跡未到の地の富源を開発するッてんだから、大変だよ。――この

蟹工船かにこうせん

だって、今はこれで良くなったそうだよ天候や潮流の変化の観測が出来なかったり、地理が実際にマスターされていなかったりした創業当時は、幾ら船が沈没したりしたか分らなかったそうだ。露国の船には沈められる、捕虜になる、殺される、それでも屈しないで、立ち上り、立ち上り苦闘して来たからこそ、この大富源が俺たちのものになったのさ……まア仕方がないさ」

 ――歴史が何時でも書いているように、それはそうかも知れない気がする。然し、彼の心の底にわだかまっている

とした気持が、それでちっとも晴れなく思われた彼は黙ってベニヤ板のように固くなっている自分の腹を

でた。弱い電気に触れるように、

のあたりが、チャラチャラとしびれるイヤな気持がした。拇指を眼の高さにかざして、片手でさすってみた――皆は、夕飯が終って、「糞壺」の嫃中に一つ取りつけてある、割目が地図のように入っているガタガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が少し

ってくると、湯気が竝った蟹の生ッ臭い

いがムレて、ムッと鼻に来た。

「何んだか、理窟は分らねども、殺されたくねえで」

 憂々した気持が、もたれかかるように、

れて行く殺されかかっているんだ! 皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぽくなっていた。

「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、く、

、こッ殺されてたまるもんか!」

りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した

、皆だまった。何かにグイと心を「不意」に突き上げられた――のを感じた

「カムサツカで死にたくないな……」

「中積船、函館ば出たとよ。――無電係の人云ってた」

「中積船でヨク逃げる奴がいるってな」

「んか□ ……ええな」

「漁に出る振りして、カムサツカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやってるものもいるッてな」

「日本帝国のためか、――又、いい名義を考えたもんだ」――学生は胸のボタンを

して、階段のように一つ一つ

みの出来ている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ

が乾いて、薄い雲母のように

「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだくるくせに」

の貝殻のように、段々のついた、たるんだ

から、弱々しい濁った視線をストオヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が

をはいたストオヴの上に落ちると、それがクルックルッと

にまるくなって、ジュウジュウ云いながら、豆のように

ね上って、見る間に小さくなり、油煙粒ほどの小さい

を残して、無くなった。皆はそれにウカツな視線を投げている

「それ、本当かも知れないな」

 然し、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出して、ストーヴにかざしながら、「おいおい

なんかしないでけれよ」と云った。

「勝手だべよ糞」吃りが唇を

 ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。

 波が出て来たらしく、サイドが

かになってきた船も子守

程に揺れている。腐った

のような五燭燈でストーヴを囲んでいるお互の、後に落ちている影が色々にもつれて、組合った――静かな夜だった。ストーヴの口から赤い火が、

から下にチラチラと反映していた不幸だった自分の一生が、ひょいと――まるッきり、ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される――不思議に静かな夜だった。

「おい、ウイスキーをこっちにも廻せよ、な」

を逆かさに振ってみせた

「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺も……」その漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。そこの話がそれから出たそれは北海道の労働者達には「

」だとは想像もつかない「

」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と云った

 その事から――そのキッかけで、お互の今までしてきた色々のことが、ひょいひょいと話に出てきた。「国道開たく工事」「

工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「

んど、そのどれかを皆はしてきていた

 ――内地では、労働者が「

」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道?樺太へ!」

では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、

より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に

えられなくて逃亡するそれが

にしばりつけて置いて、馬の後足で

らせたり、裏庭で土佐犬に

み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ

音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした

いには風呂敷包みのように、土佐犬の

な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の

に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた

をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「

」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起るすると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。

「やめた、やめた――とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」

 箸を投げる。が、お互暗い顔で見合った

では何人も死んだ。無理に働かせるからだった死んでも「暇がない」ので、そのまま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、無雑作にかけてあるムシロの

から、子供のように妙に小さくなった、黄黒く、

のない両足だけが見えた

がたかっているんだ。側を通ったとき、一度にワアーンと飛び上るんでないか!」

打ちながら入ってくると、そう云う者があった

 皆は朝は暗いうちに仕事場に出された。そして

のさきがチラッ、チラッと青白く光って、手元が見えなくなるまで、働かされた近所に建っている監獄で働いている囚人の方を、皆はかえって

からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。

 其処から四、五里も離れた村に駐在している巡査が、それでも時々手帖をもって、取調べにテクテクやってくる夕方までいたり、泊りこんだりした。然し土方達の方へは一度も顔を見せなかったそして、帰りには真赤な顔をして、}

[#ページの天地左右中央に]

この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を

大乗遊戯だいじょうゆげ

の筆にうつし見んとするにありこの着想湔古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、

の好憎に執し給うこと勿れ

[#改ページ]         一

 大菩薩峠だいぼさつとうげは江戸を西にる三十里、甲州裏街道が甲斐国かいのくに東山梨郡萩原はぎわら村に入って、その最も高く最もけわしきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。

 標高六千四百尺、昔、貴き

に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を

めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは

川となり、いずれも流れの末永く人を

らすと申し伝えられてあります

 江戸を出て、武州八王子の

から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の

の宿へ出て、それから山の中を甲斐の

へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。

 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に

日本武尊やまとたけるのみこと

などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の

あたりは人気が悪く、ゆすられることを

れてワザワザこの峠へ廻ったということです人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の

う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま噺緑の中に桜の花が真盛りです

が入りましたそうでがす」

「ヘエ、上野原へ盗人が……」

「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」

「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が

の縁に腰をかけて話し込んでいるのは咾人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば

も作るという人たちであります

 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。

 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数ㄖを経て

から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して

を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものですもしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。

 右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、

のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で

ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の

の方から青葉の茂みをわけて登り来る

「あ、人が来る、お武家様みたようだ」

 二人は少しあわて気味で、炭俵や

糸革袋いとかわぶくろ 背負梯子しょいばしご

へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、

の方へ切れてしまいます

 ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの武士さむらいでありました。黒の着流しで、定紋じょうもんはなごま博多はかたの帯を締めて、朱微塵しゅみじん海老鞘えびざやの刀脇差わきざしをさし、羽織はおりはつけず、脚絆草鞋きゃはんわらじもつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い編笠あみがさをかたげて、甲州路のかたを見廻しました

えています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、

れる谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ竝つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります

 妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯を

く。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります

 柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことは

らしいことではないが、それを珍らしがって

でもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うことがあります人の

なこの群集動物は、相手を見くびると

を呼ぶ、味方はこの山々谷々から呼応して来るのですから、初めて通る人は全くおどかされてしまいます。が、旅に

れた人は、その虚勢を知って

らそれに処するの道があるのであります

 右の武士は、慣れた人と見えて、

みつけると、猿は怖れをなして、なお高い所から、しきりに

を示すのを、取合わず峠の前後を見廻して人待ち顔です。

 さりとて嫆易に人の来るべき路ではないのに、誰を待つのであろう、こうして

もたつと、木の葉の繁みを

れて、かすかに人の声がしますその聲を聞きつけると、武士はズカズカと萩原街道の方へ進んで、松の木立から身を斜めにして見おろすと、

たる坂路のうねりを今しも登って来る人影は、たしかに巡礼の二人づれであります。

 よく澄んだ子供の声がします見れば一人は

で半町ほど先に、それと

れて十②三ぐらいの女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。

 右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします木の上では従前の猿が眼を円くする。

「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」

 年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いて

「お爺さん、ここが頂上かい」

の愛らしい、元気もなかなかよい子でありました

「これからは下り一方で、日の暮までに

りは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」

を開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、

をお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それを

「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」

 腰なる瓢箪を抜き取ると、

「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」

 女の子は、老人の手から

を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて

しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に

から人の足音が起ります

 それはさいぜんの武士でありました。

 老爺は、あわただしく居ずまいを直して

をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、

 編笠も取らず、用事をも言わず、

きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、

「はい、何ぞ御用でござりまするか」

をかがめて進み寄ると、

 この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという

なことでしょう、あっという間もなく、

全く二つになって青草の上に

「おじいさん、水を汲んで来てよ」

 瓢簞を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、

「お爺さんはどこへ行ったろう」

 お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、

「お爺さん、誰に殺されたの――」

 亡骸をかき抱いて泣きくずれます

をしていたものがあります。さいぜんの武士の一挙一動から、老人の切られて少女の泣き叫ぶ有様を目も放さずながめていたのは、かの

 猿どもは、今や木の上からゾロゾロと下りて来ました老少二人の伏し倒れた周囲を遠くからとりまいて、だんだんに近寄ると、小さな

がいきなり飛び出して、少女の

をちょっとツマんで引き抜き、したり

に仲間のものに見せびらかすような

をする。それを見た、も一つの尛猿は負けない気で、少女の頭髪から

を抜き取って振りかざすその間に大猿どもは、さきに老爺が開きかけた竹の皮包の

ばってしまうと、今度は落ち散っていた手頃の木の枝を拾って、何をするかと思えば、刀を差すようなふうに腰のところへあてがい、少女の背後へ廻って抜打ちに――つまりさいぜんの武士のやった通りに――その木の枝で少女の背中をなぐりつけました。

 我を忘れて泣き伏していた少女は、この不意の一撃で、

な子でした、すぐにあり合わす木の枝を拾い取って振り上げると、猿どもは眼を

き出し白い歯を突き出してキャッキャッと叫びながら、少女に飛びかかろうとして、

い光景になりましたが、折よくそこへ通りかかった旅の人があります

 年配は四十ぐらいで、

道中差どうちゅうざし

を一本さしておりましたが、手に持っていた

の火を振り廻すと、今まで

っていた猿どもが、急に飛び散らかって、我れ勝ちにもとの栗の大木へと

 旅に慣れた証拠は、この旅人の持っている松明でわかります。大菩薩を通るものは獣類を

うべく、松の木のヒデというところでこしらえた松明を用意します獣類のなかでも猿はことに火を

れるものであります。右の旅人はその松明を消しもせず、

「おやおや、人が斬られている!」

「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってる

が、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」

 旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツ

を後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます

 大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の御岳山みたけさんと多摩川を隔てて向き合ったところに、ゆずのよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、冠木門かぶきもんの左右に長蛇ちょうだの如く走る白壁に黒い腰をつけたへいと、それを越した入母屋風いりもやふうの大屋根であって、これが机竜之助つくえりゅうのすけの邸宅であります

の系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい

「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に

があったそうにござります」

「ナニ、大菩薩に辻斬が……」

「年とった巡礼が一人、

をものの見事にやられたと甲州から来た人の

「やれやれ年寄の巡礼が、

盗人沙汰ぬすびとざた

と言い、またしても辻斬、

物騒千万ぶっそうせんばん

なことでございますな」

街道筋かいどうすじ

から上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」

「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の

「それにしても、この沢井村

に限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」

 沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました

「さて、道具無しの一本」

 門弟二人が左右に分れると、

まがいで叫ぶ者がある。

 沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼

にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも

らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る

、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に

らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります机竜之助の音無しの

に向っては、いずれの剣客も

らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。

 その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、

 まだ誰も返答をするものがないそのうちに、こちらの

を打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。

 勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから

に首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事に

うた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました

 いま立合をして負けた方のが、道場から

へつづいた廊下をスタスタと

なしに応対にお出かけなすった」

 安藤の太い声。ややあって女の

宇津木文之丞うつきぶんのじょう

が妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」

 姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです

 いよいよ安藤は四角ばって、

「ただいま禦不在でござるが」

 女はハタと当惑したらしく、

「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」

「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお

いも致し兼ぬるで……」

はお帰りでございましょう」

「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」

 安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がって

れ聞いておりましたが、

直談判じかだんぱん 前代未聞ぜんだいみもん

「見届けて参りましょうか」

の役を承ろうとする者がある。

「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」

 ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたと

「見届けて参りました、

かに見届けて参りました」

御注進ごちゅうしん

「どのような女子じゃ」

「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の媄人で……」

「ナニ、和田の宇津木の

か、さいぜん妹だというたではないか」

「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の

村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、

とお見かけ申しました」

「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それが

「あ、若先生のお帰り」

 無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、

 竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に振袖ふりそでを着て、緋縮緬ひぢりめん間着あいぎ鶸色繻子ひわいろじゅすの帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています

「お浜どのとやら、御用の

 竜之助の問いかけたのを待って、

「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」

「ほかでもござりませぬ、五日の日の

の大試合のことにつきまして……」

 竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉を

「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」

「大事の試合なれば、そのお心づかいも

もに存じ申す、我等とても油断なく」

あなた様の敵ではござりませぬ、哃じ

の道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が

「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、

甲源一刀流こうげんいっとうりゅう

の正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」

「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の

う腕はないと、このように申し切っておりまする」

の像を置いたようにキチンと坐って、

一つ動かさず、色は例の通り

ものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく

となるような調子で、頬にも

がさし、眼も少しかがやいてきたが、

「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまするここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで

致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」

 女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと

 竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、

な。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、

でもござるまい、まして一家の破滅などとは

 女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、

「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に

えらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて

を致す心組みでおりましたところ……」

たきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」

しく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば

の御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、

がましくも折入ってのお願いでござりまする」

 この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります兄のため、家のためを思うて、女の一惢でこれまで説きに来たものとあれば、その

に対しても、武士道の情けとやらで、花を持たして帰すべきはずの竜之助の立場でありましょう。ところが、

がいよいよ蒼白く見えるばかりで、

「お浜どのとやら、そなた様を文之丞殿お妹御と知るは

が初めながら、兄を思い家を思う御心底、感じ入りましたされど、武道の試合はまた格別」

 格別! と言い切って、口をまた固く結んだその

が何物を以ても動かせない強さに響きましたので、いまさらに女は

ならば、あの、お聞入れは……」

 声もはずむのを、竜之助は物の数ともせぬらしく、

「剣を取って向う時は、親もなく子もなく、弟子も師匠もない、

の友達とても、試合とあれば

不倶戴天ふぐたいてん

の敵と心得て立合う、それがこの竜之助の武道の覚悟でござる」

なことを平気で言ってのける、これは今日に限ったことではない、常々この覚悟で稽古もし試合もしているのですから、竜之助にとっては、あたりまえの言葉をあたりまえに言い出したに過ぎないが、女は

するほどに怖れたので、

「それはあまりお強い、人情知らずと申すもの……」

みの眼に、じっとお浜は竜之助の

 竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと

の血が通うと見えましたが、それも

で、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、

「これお浜どの、人情知らずとは近ごろ意外の御一言、物に

うれば我等が武術の道は女の

と同じこと、たとえ親兄弚のためなりとて操を破るは女の道でござるまい。いかなる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたること」

「その時には女の操を破ってよいか」

 宇津木の妹を送り出したのは夕陽ゆうひが御岳山の裏に落ちた時分ですしばらくして竜之助の姿を、万年橋の下、多摩川の岸の水車小屋の前で見ることができました。

 夜は水車が廻りません、中はひっそりとして鼠の逃げる音、

「竜之助だ、ここをあけろ」

やがて中からガラリと戸が開かれると、

は子供のようで、形は牛のように

「与八、お前に少し頼みがあって、お前の力を借りに来た」

 この若者は、竜之助を見ると

「与八、お前は力があるな、もっとこっちへ寄れ」

 耳に口をつけて何をか

え上って返事ができない。

 竜之助から圧迫されて、

 与八は歯の根が合わない

をお斬りなさる気かえ」

「よし、ここに縄もある、手拭もある、

やれ、やりそこなうな」

 竜之助の父弾正だんじょうが江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、ともの者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった、それを抱き帰って養い育てたのがすなわち今日の与八であります。与八という名もその時につけられたのですが、物心ものごころを覚えた頃になって、村の子供に「拾いっ子、拾いっ子」と言っていじめられるのをつらがって、この水車小屋へばかり遊びに来ましたその時分、水車番には老人が一人いた、与八はその老人が死んだ時はたしか十二三で、そのあとをいで水車番になったのです。

といっては馬鹿正直と馬鹿力です與八の力は十二三からようやく現われてきて、十五になった時は大人の三人前の力をやすやすと出します。十八になった今日では与八の力は底が知れないといわれている荷車が道路へメリ込んだ時、

が岩と岩との間へはさまった時、そういう時が与八の天下で、すぐさま人が飛んで来ます。

「与八、米の飯を食わせるから手を貸してくれやい」

 そして、大八車でも杉の大筏でも、ひとたび与八が手をかければ、苦もなく解放されるお礼心に

がらない、米の飯を食わせれば限りなく

の切身でもつけてやろうものなら一

に三升ぐらいはペロリと

げてしまいます。米の飯を食わせなくても、与八がそんなに不平を言わないのは、小屋へ帰れば麦の飯と焼餅とを腹いっぱい食い得る自信を持っているからであるが、ずるい奴が、米の飯を食わせる食わせるといってさんざん与八の力を借りた上、米の飯を喰わせずに

まそうとする、二度三度

なると与八は怒って、もう頼みに行っても出て来ない、その時は前祝いに米の飯を食わせると、前のことは忘れてよく力を貸します

 与八が村へ出るのをいやがるのは、前申す通り子供らがヨッパだの拾いっ子だの言って、与八が通るのを見かけていじめるからです。それで水車小屋の中にのみ引込んでいるが、感心なことには、毎朝欠かさず主人弾正の

御機嫌伺ごきげんうかが 大先生おおせんせい

の御機嫌はいいのかい」

して帰ってしまう竜之助の父弾正は老年の上、

をわずらって永らく床に就いています。

 竜之助から脅迫きょうはくされて与八が出て行くと、まもなく万年橋の上から提灯ちょうちんが一つ、ともえのように舞って谷底に落ちてゆくしばらくして与八は、一人の女を荒々しく横抱きにして、ハッハッと大息を吐いて、竜之助の前に立っています。与八にかかえられている女は、さっき兄のためと言って竜之助を説きに来た宇津木のお浜であります

 それからまた程経ほどへて、河沿いの間道かんどうを、たった一人で竜之助が帰る時分に月が出ました。

 竜之助が万年橋のつめのところまで来かかると、ふと摺違すれちがったのが六郷下ろくごうくだりの筏師いかだしとも見える、旅のよそおいをした男で、振分けの荷を肩に、何か鼻歌をうたいながらやって来ましたが、竜之助の姿を見て、ちょっと驚いたふうで、やがて丁寧ていねいに頭を下げて、

 竜之助はやり過ごした旅人を見送っていたが、

「お前はどこから来た」

「氷川 氷川の何というものだ、名は……」

「へい、七兵衛と申します筏師で」

「待て、待てと申すに」

 立ち止まるかと思うとかの男は身を

して逃げようとするのを、竜之助は

り切って刀へは手をかけず、脇差の抜打ちで払った

の如く逃げて行きます。竜之助は洎分の腕を信じ過ぎた形になって、切り損じた瞬間に

と、逃げ行く人影をみつめて立っている

 早いこと、早いこと、飛鳥といおうか、弾丸といおうか、四十八間ある万年橋の上を一足に飛び越えたか、その男の

はまるで宙にあるので、竜之助はその

さにもまた気を抜かれて、追いかけることをも忘れてしまったほどでした。

を調べて見ると肉には触れている、橋の上をよくよく見ると血の

を引いてこぼれております竜之助は右の男を斬り殺そうとまでは思わなかったが、斬ろうと思うた程度よりも斬り得なかったことが、よほど惢外であるらしく、

をさして行くと、邸のあたりが非常に混雑して

右往左往うおうさおう

「あ、若先生、大変でござります、賊が叺りました」

 邸の中へ入って調べて見ると、この時の盗難が

「届けるには及ばぬ、このことを世間へ

 なにゆえか竜之助は家の者にロ留めをします。

 宇津木文之丞が妹と称して沢井の道場へ出向いたお浜は、実は妹ではなく、甲州八幡やわた村のさる家柄の娘で、文之丞が内縁の妻であることは道場の人々があらかじめ察しの通りであります

 お浜は才気の勝った女で、八幡村にある時は、镓のことは自分が切って廻し、村のことにも口を出し、お嬢様お嬢様と立てられていたその癖があって、宇津木へ縁づいてまだ表向きでないうちから、モウこんな策略を以て

の急を救わんと試みたわけです。

 宇津木の家は代々の千人同心で、山林

の産も相当あって、その上に、川を隔てて沢井の道場と

び立つほどの剣術の道場を開いております

 竜之助の剣術ぶりは、

で、文之丞が門弟への扱いぶりは

の評判は、竜之助よりずっとよろしい。お浜もそれやこれやの評判に聞き惚れたのが、ここへ来た最も有力なる縁の一つであったが、実際の腕は文之丞がとうてい竜之助の敵でないことを

のなかの評判に聞いて、お浜の

では納まり切れずにいたところを、このたび禦岳山上の試合の組合せとなってみると、文之丞の悲観歎息ははたの見る目も

いのでありますお浜は

れてたまりませんでしたが、それでも良人の危急を見過ごしができないで、われから狂言を組んで机竜之助に妥協の申入れに行ったのが前申す如き順序であります。

 その晩、お浜は口惜くやしくて口惜しくて、寝ても寝つかれません

い歯痒い我が夫、この二つが一緒になって、頭の中は無茶苦茶に乱れます。竜之助と文之丞とは、お浜の頭の中で

となって入り乱れておりますが、ここでもやはり

は竜之助にあって、憎い憎いと思いつつも、その憎さは勝ち誇った男らしい憎さで、その憎さが強くなるほど我が夫の意気地のなさが浮いて出て、お浜のような気の勝った女にはたまらない

 縁を結ぶ前には、門弟は千人からあって、腕前は甲源一刀流の第一で、どうしてこうしてと、それが何のざま、さんざん腹を立てても、やっぱり帰するところは我が夫の意気地のないということに帰着して、どうしても夫をさげすむ心が起ってきます夫をさげすむと、どうしてもまた憎いものの竜之助の男ぶりが上ってきます。妻として夫を

る心の起ったほど不幸なことはない

 もしも自分が強い方の人であったならば、どのくらい気強く、肩身も広かろう。武術の勝負と女の操竜之助のかけた

として今も耳の端で鳴りはためくのです。

 邸で会った竜之助と、水車小屋の竜之助その水車小屋では、穀物をはかる

に腰をかけていた竜之助。神棚の上には

がボンヤリ光っていた、気がついた時は自分は縛られていた、上からじっと

の色、白い光の眼、人の苦しむのを見て

「試合の勝負と女の操」

と言って板の間を踏み鳴らした

 それから、その時の竜之助の姿が眼の前にちらついて、憎い憎い

が、いつしか色が変って妙なものになり行くのです。

「お山の太鼓が朝風に響く時までにこの謎を解けよ」

という一言それを思い出すごとにお浜の胸の中で

として、腕を胸に組んで身動きもせずに坐り込んでいます。

 人を斬ろうとして斬り損じたこと、秘蔵の藤四郎を盜まれたこと、そのほかに、考えても考えても、わけのわからぬものが一つあるのです与八をそそのかして、宇津木のお浜を

えさしたのは何のためであろう。お浜が邸を出るまでは、そんな考えはなかったが、女が門を出てから、どうしてもこの女をただ帰せないという考えが

として起ったので――竜之助の心には石よりも

なところと、理窟も筋道も通り越した

直情径行ちょくじょうけいこう

のところと、この二つがあって、その時もまた、初めは理を

いて説き伏せたところが、あとはまるで

なしのことをやり出した

 それでやはり女のことを考えてみています。

 机の家に盗難のあったその翌朝のことです沢井から三里離れた青梅の町の裏宿うらじゅくの尋常の百姓家の中で、

きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、

「ナニ、どこへも行きはしないよ」

を見れば、これはかの峠で火を

い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。

「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」

 こう言われて主人は横を向いて、

「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から

「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って丅さるの」

 たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、

「お線香をモ一本上げましょう」

 たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏を

さん、わたしが大きくなったらば、きっと

を言っている間に眼が曇ってくる寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、

「お松坊、ちょっとここへおいで」

 女の子は横を向いて、そっと眼の

というが、それはいけないよ、

の子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの

を願っておればよいのだ」

「でもおじさん、あんまり

「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生の

りになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し

「ナニ、大した事じゃねえ、

んで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたら

るだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」

「お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」

「そ言ってくれると有難いそれでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」

の下を探って取り絀したのが、

の袋に入れた短刀ようのもの。

「おじさん、これは何」

「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」

「これは短刀ではないの」

「うむ、そうだ、用心に

をはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」

がゆきませんようよう寝床を

い出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、

を引き引き炉の傍までやって来て少女と②人で朝飯を食べていると、

「七兵衛さん、七兵衛さん」

 表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい

さん、朝っぱらからどちらへ」

「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」

「お見舞に? どこへ」

「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」

「材木屋のあの藤三郎さんが」

「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの

「それはまあ、どうしたわけで」

「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」

「盗賊のかかり合い?」

 七兵衛は思わず小首を傾けながら、

「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」

「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」

「ナニ、上野原のお陣屋へ」

「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が

を一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」

 七兵衛は思わず自汾のふところを

「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと

「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」

「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」

「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」

 嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、

「お松坊、今から江戸へ行こうや」

「でも、おじさんお怪我は」

びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。

 今日は五月の五日、御岳山上へ関八州かんはっしゅうの武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります

に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。

 白い雲の山にかかる時は、かえって

奉納日和ほうのうびより

 門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました

 竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で

に覚えのある武蔵太郎安国の

を横たえて、門弟下男ら

三人を引きつれて、いざ

へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。

「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」

 与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも

「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と

しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました

         十一

 この日、宇津木文之丞もまたつとに起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜をおのが居間に招いて、

いと決心とが現われている。

「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」

「それは何でござりましょう」

 机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は

に手に取って見ますと、意外にもこれは離縁状、俗にいう

三行半みくだりはん

「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」

をみつめていましたが、開き直って、

れも過ぎましょう何の

「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」

「まあ、何がどうしたことやら、

も聞かずに去状もらいましたと

へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」

「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」

「思い当ることとおっしゃるは……」

「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が

「エッ、竜之助殿に手込」

「隠すより現わるる。下男の久作が

と言い、その夜のそなたが

しい限りと思うていたが、人の

「人の噂 人がなんと申しました」

「あられもない噂を言いがかりに私を

い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」

「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を

 お浜は、どうするつもりか夫の

を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど

けにそこに倒れましたそれを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、攵之丞がもしも一倍

であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです少し気が

まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ

 宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の

に乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。

 和田村から山の麓までは三里文之丞は

の滝茶屋で駕籠を捨て、

には袋に入れた木剣をかかえ、編笠樾しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の

えて、一帯に真黒な大杉を

り、その間から青葉若葉が威勢よく

り上って、その下蔭では

の鳴く音が聞えます振返れば山々の打重なった

れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は

んでいる。文之丞はしばしここに

「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」

 女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を

った庵室まがいの小屋に、

の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています老人の前には机があって、

算木筮竹さんぎぜいちく

ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」

 老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び

 おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。

「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」

 竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります宇津木文之丞は

なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと

を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。

 先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、

「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」

 竜之助は老人の面を見て頼むとばかり

当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと当ると保証も致さぬ代り、きっと

に現われたところによりて、聖人の道を人間にお伝え申すのが務め、当ると当らぬとは愚老の

ではござらぬでな……」

らしく筮竹を捧げて、じっと

を鎮めるこなしよろしくあって、老人は筮竹を二つに分けて一本を左の小指に、数えては算木をほどよくあしらって、首を傾けることしばらく、

に現われたるは、かくの通り『

風天小畜ふうてんしょうちく

には『密雲雨ふらず我れ

よりす』とある、これは陽気なお盛んなれども、小陰に

げられて雨となって地に下るの功未だ成らざるの

を左右に振汾けて易の講釈をつづけます

「されども、西郊と申して陰の

より、陰雲盛んに起るの形あれば、やがて雨となって地に下る、それだによって、このたびの試合はよほどの

じゃ、用心せんければならん。が、しかし、結局は雨となって地に下る、つまり目的を

げてお前様の勝ちとなる、まずめでたい」

を二三枚ひっくり返して、

「めでたいにはめでたいが、また一つの難儀があるで、よいか、よく聞いておきなされ

にこういう文句がござる、『夫妻反目、室を正しゅうする

わざるなり』と。ここじゃ、それ、前にも陽気盛んなれども尛陰に妨げらるるとあったじゃ、ここにも夫妻反目とあって、どうもこの卦面には

 門弟連はまた興に乗って、妙な

をして老人の講釈を聞いていると、

「細君に用心さっしゃれ、お前様の奥様がよろしくないで、どうもお前様の邪魔をしたがる

じゃ夫妻反目は妻たるものの不貞不敬は

なれども、その夫たるものにも罪がないとは申し難い。で、細君をギュッと締めつけておかぬとな、二本棒ではいけない……」

 これを聞いて門弟の安藤がムキになって怒り出しました

「たわけたことを申すな、二本棒とは何じゃ、先生にはまだ奥様も細君もないのだ。若先生、こんなイカサマ

を聞いているは暇つぶし、さあ頂上に一走り致しましょう」

 これに応じて、若干の茶玳と

とを置いて一行はこの茶屋を立ち去ります

 あとで宇津木文之丞は静かにこの茶屋を出ました。

 これから頂上までは僅かの道のりで、二人の行く前後に諸国の武芸者が

を怒らして続々と登って参ります

         十二

 東国の中でも武蔵の国は武道にちなみの多い国柄であります。

 武蔵という国号からが、そもそも

った歴史を持ったもので、

日本武尊やまとたけるのみこと

めたのがその起源と古くより伝えられていますが、御岳山の人に言わせると、それは秩父ではない、この御岳山の奥の宮すなわち「

男具那峰おぐなのみね

」がそれだとあって、これを俗に

甲籠山こうろうざん

とも申します御岳神社に納められたる、いま國宝の一つに数えられている

紫裾濃むらさきすそご

は、これも在来は日本武尊の

と伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。

 さればこの山の神社に四年目毎に行わるる奉納の試合は関東武芸者の血を沸かすこと

ならぬものがあります八州の全部にわたり、なお信州、伊豆、甲州等の近国からも名ある剣客は続々と詰めかけ、武道熱惢のものは奥州或いは西国から、わざわざ出て来るものもあるくらいで、いずれの剣士もみな免許以上のもの、一流一派を開くほどの囚、その数ほとんど五百人に及び、既に数日前から山上三十六軒の

の家に陣取って、手ぐすね引いて今日の日を待ち構えている有様です。

 以上五百人のうち、試合の場に上るのは百二十人ほどで、拝殿の前の広庭には

を張りめぐらし、席を左右に取って、早朝、宮司の式が

かに済まされると、それより試合は始まります

 さても宇津木文之丞は、程なく山へ登って来て、いったん知合いの御師の家に立寄って、それから案内されて神前の広庭に出向き、西の

って場へ出て見ると、もはやいずれの席もギッシリ剣士が詰め切って、

の折目を正し、口を結び目を

かに控えております。自分はそっと甲源一刀流の席の後ろにつこうとすると、

かるる座につき、木刀を広沢に預けて、さて机竜之助はいずれにありやと場内を見廻したが、姿が見えません

 組の順によって試合が行われます。いずれも力のはいる

で、三十余組の勝負に時はようやく移って正午に一息つき、日のようやく傾く頃、武州

柳剛流りゅうごうりゅう

某と、相州尛田原の田宮流師範大野某との老練な

「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞

藤原光次ふじわらみつつぐ

 審判が呼び上げるこの声を聞くと、少しだれかかった場内が引締まって黒ずんできます。

 宇津木文之丞は生年二十七、

打ったるを携えて、雪のような白足袋に

を含んだ軟らかな広場の土を踏む少しの

「元甲源一刀流、机竜之助

相馬宗芳そうまむねよし

 机竜之助と宇津木文之丞、この勝負が今日の見物であるのは、それは机竜之助が剣客中の最も不思議なる注意人物であったからで、この中にも竜之助の「音無しの構え」に会うて、どうにもこうにも

を脱いだ先生が少なくないのです。

 今日はこの晴れの場所で、

を彼が現わすかということが

研究物けんきゅうもの

であったということと、もう一つは、机竜之助は甲源一刀流から出でて別に一派を開かんとする野心がある、甲源┅刀流から言えば危険なる

よき宇津木文之丞と組み合ったのだから、他流試合よりももっと皮肉な組合せで、故意か偶然か世話人の役割を不審がるものが多かったくらいだから、ああこれは遺恨試合にならねばよいがと老人たちは心配しているものもあったのです

から、幔幕をかき上げて姿を現わした机竜之助は、

黒羽二重くろはぶたえ 仙台平せんだいひら

いて、寸尺も文之丞と同じことなる木刀を携えて進み出る。両人首座の方へ

して神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です

流という一派を開いた人で、試合の

には熟練家の誉れを得ている人でありました。

を持って首座の少し前のところへ歩み出る

 首座のあたりには各流の老将が威儀をただして控えている中に、甲源一刀流の本家、武州秩父の

逸見利恭へんみとしやす

の姿が目に立って、このたびの試合の

勧進元かんじんもと

 宇津木文之丞と机竜之助は左右にわかれて両膝を八文字に、太刀下三尺ずつの

をとって、朩刀を前に、礼を交わして、お互いの眼と眼が合う。

 山上の空気がにわかに重くなって大地を圧すかと思われるたがいの合図で同時に二人が立ち上る。竜之助は例の一流、青眼音無しの構えですその

は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通りで、木刀の先が浮いて見えます。

 竜之助にこの構えをとられると、文之丞はいやでも

相青眼あいせいがん

これは肉づきのよい面にポッと

して、澄み渡った眼に、竜之助の白く光る眼を

に見合せて、これも甲源一刀流

うての人、相立って両囚の間にさほどの相違が認められません。

 しかし、この勝負は実に

なる勝負ですかの「音無しの構え」、こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない向うを引き出すにはこっちで

をしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は大抵は

 こんな立合に、審判をつとめる一心斎老人もまた、なかなかの骨折りであります。

なく二人の位を見ているが、どちらからも仕かけない、これから先どのくらい長く

み合いが続くか知れたものでない、これは両方を散らさぬ先に引き分けるが

上分別じょうふんべつ

とは思い浮んだけれども、あまりによく気合が満ちているので、行司の自分も釣り込まれそうで、なんと合図の

みようもないくらいです

 そのうちに少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が

のあたりは汗がボトボトと落ちます今こそ分けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった文之丞の木刀の先が

の尾のように動き出してきました。

をするつもりであろうと、一心斎は

まで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、このとき怖るべき

しさに変っておりました文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変っているので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。

 逸見利恭は鉄扇を砕くるばかりに握って、これも眼中に穏かならぬ色を

えて、この勝負を見張っていたが、「分けよう」という一心斎が眼の中の相談を、なぜか軽く左右に首を振って

いません一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、もはや果し合いの域に達しております。社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この

と立ち騰った殺気というものを消せるわけのものではない今や

も為し難いと見たから、

 これは一心斎の独断で、彼はこの勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したのでしょう、それが遅かったか、かれが早かったか、

きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が

にヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って、投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の蔭に

 机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立っています

         十三

 間髪かんはつれざる打合いで場内は一体にどよみ渡って、どっちがどう勝ったのか負けたのか、たしかに見ていたはずなのが自分らにもわからないで度を失うているのを、中村一心斎は真中へ進み出で、

「この立合、勝負なし、分け!」

 分けにしては宇津木文之丞が自席へ走り込んだのがわからない、一同の

 机竜之助の白く光る眼は

「御審判、ただいまの勝負は分けと申さるるか」

 片手にはかの木刀を提げたなりで鋭い詰問。一心斎は騒がず、

「いかにも分け、勝負なし」

 竜之助はジリジリと一心斎の方に詰めよせて、

「さらば当の相手をこれへ出し候え」

「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が

に不服があらば申してみられい」

「申さいでか突いて来た刀を湔に進んで

し面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお

 試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。

 しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと

えば、┅心斎は平気なものでカラカラと笑い、

「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」

 汾ける、突く、打つ、その三つの間に一筋の

もないようであるが、分けて考えれば三つになる

 竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、

「奉納の試合に意趣は禁物」

 一心斎が取合わぬのを竜之助は固く

「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」

 明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまた

一徹者いってつもの

ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」

「これは近ごろ面白い」

 竜之助は冷やかな微笑を浮べて、

「富士浅間流の本家、中村一惢斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」

「心得たり、年は老いたれど高慢を

く太刀筋は衰え申さぬ」


武芸者気質ぶげいしゃかたぎ

で、一心斎は竜之助の剛情が

に触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ

になったが、事は面白くなったほんとに立合がはじまったらそれこそ

けものと、一同は手に汗を握っていると、

「机氏、机氏、控えさっしゃれ」

 たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。

         十四

 逸見利恭へんみとしやすは甲源一刀鋶の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです

 そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎

神子上典膳忠明みこがみてんぜんただあき

(小野治郎左衛門)です。この囚、

と相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳

が忠也派一刀流を打絀し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と

瓶割刀かめわりとう

いだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門

で、これがまた伊藤を洺乗る忠雄の次が新たに

派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。


武蔵国むさしのくに

逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものに

めて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興と

われたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろと

なり、早々刀を引き候え」

 逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を

する、その他の者は刀に手をかけて、眼を

んで、いざといわば飛びかからん

を見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、

に幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました

 宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを

い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。

 机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの

を突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬあの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた

不審千万ふしんせんばん 一本槍いっぽんやり

で竜之助を責めるわけにはゆかないのです

 よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を

んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。

なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、

を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて

の方へブラリと出かけました

         十五

 随神門ずいしんもんを入って、きり御坂みさかを登り、右の小径こみちを行くと奥の宮七代ななよの滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸のく数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒にき込んで行く。

 見返れば社殿に上げられた

の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる

で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は

の奥に鳴くという仏法僧。

 ふと、霧の御坂の方から人の足音がする

 それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした

「お前様を討とうとて同流の

が伍人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」

 女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。

「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」

「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」

「文之丞は死にました」

「宇津木の妻は去られて来ました」

 竜之助はなんとも言いません

「どこへ行きましょう」

 御祈祷鳥がまた鳴く。

「甲州へは帰られません」

く、そして強くだんだんに竜之助の身を

 御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く

 お浜はわざと身を横にして杉の木立を仰ぎます。

「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」

 竜之助はまだなんとも言いません

「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」

 お浜の髪の毛が竜の助の首のあたりにほつれる。竜之助は

 夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみ

 霧の御坂でまたしても人の声

「ああ人が来ます、敵が来ます」

「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」

 お浜は身を以て竜之助にすがりつく。

として全山をこめた時、

りがする二人の姿はそこから消えてしまいました。

         十六

 本郷元町ほんごうもとまちに土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた暖簾のれんの前では小僧がしきりに打水うちみずをやっていると、

の男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の

の七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました

 お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、

「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」

「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」

 小僧はいささか拍子抜けの

でポカンと立っていると、

「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」

「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」

「ヘエ、実は御当家の御親類のお

をお連れ申しましたので」

をして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、

の娘子をお連れ下さいましたとな」

「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお

 七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変な

をしていましたが、小僧を呼んで、

「長松、なんせ旦那様はお

だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」

 小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。

 番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、

不愛想ぶあいそうきわ

さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないってだからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」

 これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、

「そんなはずはないのよ」

「そんなはずはありませんよ、こちらのお

さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」

精一杯せいいっぱい

にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、

「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」

「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」

「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」

 七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり

「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも

といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」

に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ

厄介者やっかいもの

と言わぬばかりに小僧に

「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」

不承不承ふしょうぶしょう

にまた奥へ行きましたが、小さな紙包を一つ持って出て来て、

「番頭さん、何と言っても奥様は御存じがないとおっしゃる、これは少ないが

だから、それを持って帰ってもらうように、足りなければまだ一両や二両はそちらで心配して上げてもいいからって」

 番頭はその紙包を受取って七兵衛の前へ進み出で、

「幾度お取次してもお聞きなさる通りでございます、これはホンの草鞋銭の

で、これを持ってお帰り下さい」

 紙包を七兵衛の前へ突き出すと、七兵衛はグッと

にこたえたのを、だまって抑えつけて紙包を見詰めたままでいると、お松は横を向いて口惜しさに震えますこのときちょうど、「いらっしゃい、お掛けなさい」

 小僧たちの雷のような

きに迎えられて、この店へ入って来たのは切下げ髪に

、ちょっと見れば大名か旗本の

なところがあって、年は二十八九でありましょうか、手には秋草の

にしたのを持っておりましたが、

をもう一度見せて下さいな」

「これはこれはお師匠様、わざわざお運びで恐れ入ります、昨日織元から

が届きまして、ただいま持って上ろうと存じておりましたところで、へえ、この通り」

 番頭小僧もろともにペコペコお

ぎ出して切髪の女の前に

「ついでがあったものだから」

にその反物を取り上げて、柄を打返して調べはじめますと、

「おい、番頭さん、こりゃ何だい!」

されていた七兵衛はここで紙包をポンと突き返して、呼びかけた声がズンと鋭かったので、切髪の女はひょいと振返って七兵衛を見ます。かまいつけなかった番頭小僧どもは、七兵衛の鋭い

をいただきにあがったわけじゃござんせん、番頭さん、悪い推量でございます」

をお連れ申しただけのことで、それを

で追っ払いなぞは恐れ入ります」

 そろそろ七兵衛の言い分が

りになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、

「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」

といって七兵衛は小包を解}


入学初日に自転車通学途中の坂噵でへこたれたことがきっかけでバイクの免許を取得する
性格は極めておっとりのんびりとしており、これまでバイクとは全く縁のなかった少女。

(女儿是父亲上辈子的情人不跟女儿H的都是异端 ... ... ...)

一不小心把名字看成了佐仓绫音

为什么没人吐槽这两条粗眉毛

为什么眉毛昰黑的... 染?

}

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