よのなか世壊れかけの世界の中でにはふたつ二つのものをちょくし直视,できない、たいよう太阳、2ひと人のこころ心に什么

岚のなかの恋だから歌词_百度知道
岚のなかの恋だから歌词
岚のなかの恋だから歌词
我有更好的答案
时代の岚には 逆らえぬ定め それでも恋ゆえに 抗って 恋ゆえにJidaino arashi niwa sakaraenu sadame soredemo koiyueni aragatte koiyueniまだ 终わりじゃない(谛めたくない) ああ 禁じられた(思いが高まる)Mada owarijyanai(akirame takunai) aa kinji rareta(omoiga takamaru)救いの手は见つからない 祈りを捧げてもSukuinote wa mitsukaranai inoriwo sasagetemoただ 见つめあえる(何もかも忘れ) 时间が欲しかった(言叶はいらない)Tada mitsume aeru(nanimokamo wasure) jikanga hoshikatta(kotobawa iranai)逃げる だめよ 叶わない それぞれの愿いNigeru dameyo kanawanai sorezoreno negai次の世界で(また会いたいの) 生まれ変わって(また会いたいの)Tsugino sekaide(mata aitaino) unmare kawatte(mata aitaino)今度は 幸せになろうって誓いましょう(誓いましょう)Kondowa shiawaseni naroutte chikaimasyou(chikaimasyou)さあ その扉(见送るわたし) さあ 出たあとは(立ち去るあなた)Saa sono tobira(miokuru watashi) saa deta atowa(tachisaru anata)振り返らないでね(すぐに 消えて お愿い) 二度と会えないわFurikaera naidene(suguni kiete onegai) nidoto aenaiwa魂は梦で(梦の中で) 惹かれあうのよ(爱のために)Tamashiiwa yumede(yumeno nakade) hikareau noyo(aino tameni)体が何処にあっても 声が闻こえるでしょうKaradaga dokoni attemo koega kikoeru deshyou魂は梦で(梦の中で) 惹かれあうなら(爱のために)Tamashiiwa yumede(yumeno nakade) hikareau nara(aino tameni)悲しむことはないのね いつでも一绪だからKanashimu kotowa nainone itsudemo isshyo dakaraただ 见つめあえる(何もかも忘れ) 时间が欲しかった(言叶はいらない)Tada mitsume aeru(nanimokamo wasure) jikanga hoshikatta(kotobawa iranai)逃げる だめよ 叶わない それぞれの愿い 祈りを捧げてもNigeru dameyo kanawanai sorezoreno negai inoriwo sasagetemoあの日私 一目で好きになったみたい 昨日のことのようだわAnohi watashi hitomede sukini nattamitai kinouno koto noyoudawa(容我吐槽一句某彩唱的是西班牙语吗差点听不出来)いつか(二人) きっと(二人) 结ばれると 信じていたあの日Itsuka(futari) kitto(futari) musubareru to shinjite ita anohi次の世界は(また会えるから) 平和な世界(また会えるから)Tsugino sekaiwa(mata aerukara) heiwana sekai(mata aerukara)必ず 幸せになろうって誓いましょう(誓いましょう)Kanarazu shiawaseni naroutte chikai mashyou(chikai mashyou)さあ その扉(见送るわたし) さあ 出たあとは(立ち去るあなた)Saa sono tobira(miokuru watashi) saa deta atowa(tachisaru anata)呼んではいけないの(すぐに 消えて お愿い) 涙あふれてもYondewa ikenaino (suguni kiete onegai) namida afuretemo幻抱いて(梦を抱いて) 生きていくのよ(そっと抱いて)Maboroshi daite(yumewo daite) ikite ikunoyo(sotto daite) 永远の爱で静かに 思いで温めたらeienno aide shizukani omoide atatametara幻抱いて(梦を抱いて) 生きていくには(そっと抱いて)Maboroshi daite(yomewo daite) ikite ikuniwa淡い口づけ并んだ それだけでもいいのAwai kuchiduke naranda soredake demo iino『生まれ変わっても umare kawattemo私たちは watashi tachi waまた惹かれあう mata hikareau运命だって unmei datteわかってるから wakatteru kara何処までも お伴いたします dokomademo otomo itashimasu例え时代が tatoe jidaiga引き裂いたとしても hikisaita toshitemo二人の爱は 永远なの futarino aiwa eien nano』时代の岚には 逆らえぬ定め それでも恋ゆえに 抗って 恋ゆえにJidaino arashi niwa sakaraenu sadame soredemo koiyueni aragatte koiyueni(今を 止めて お愿い)  革命の炎(imawo tomete onegai) kakumeino honoo魂は梦で(梦の中で) 惹かれあうのよ(爱のために)Tamashiiwa yumede(yumeno nakade) hikareau noyo(aino tameni)体が何処にあっても 声が闻こえるでしょうKaradaga dokoni atteno koega kikoeru deshyou魂は梦で(梦の中で) 惹かれあうなら(爱のために)Tamashiiwa yumede(yumeno nakade) hikareau nara(aino tameni)悲しむことはないのね いつでも一绪だからKanashimu kotowa nainone itsudemo isshyo dakaraただ 见つめあえる(何もかも忘れ) 时间が欲しかった(言叶はいらない)Tada mitsume aeru(nanimokamo wasure) jikanga hoshikatta(kotobawa iranai)逃げる だめよ 叶わない それぞれの愿い 祈りを捧げてもNigeru dameyo kanawanai sorezoreno negai inoriwo sasagetemoおわり
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【三专新曲】小鸟solo 硬い殻のように抱きしめたい收藏
日文歌词硬い殻のように抱きしめたい齋藤飛鳥 なんだか疲れちゃった珍しく弱音を言った君らしくない君だから黙ってそばにいてあげる何があったかなんて聞いたって何もできない涙を流してくれたら今より君は楽なのに 気を利いた言葉なんて思いつかないけど僕の腕の中に君を抱いて悲しみから守り抜こう 生きてれば色々あるいいことばかりじゃないんだため息ばかりついてたら力が抜けてしまいそうさ 知らぬ間に傷つくのは心の柔らかい場所二度と誰にも触れさせないように硬い殻で包み込もう 僕にできることは世界の誰よりも強い力で君の全てをただ抱きしめることだ気を利いた言葉なんて思いつかないけど君のために硬い殻になって悲しみから守り抜こう 僕が硬い殻になろう
如同硬壳一样想要将你抱紧总觉得有点累了难得说了泄气话因为不像平时的你所以就静静地陪在你身旁到底发生了什么就算问你我也帮不上忙要是你能哭上一场明明你也会比现在更轻松安慰人的话虽然想不出但我能把你抱紧怀中保护你走出悲伤活在世上会经历许多并非总能遇到好的事情若总是唉声叹气就会感到自己的无力吧不知不觉中受伤的是心中柔软的地方为了不在让任何人触碰以硬壳包裹住吧我能做到的只有用比这世上的任何人都更大的力量把你的全部紧紧抱住安慰人的话虽然想不出为了你化作硬壳保护你走出悲伤我要变成硬壳
鸟的声音好温柔
不是说鸟唱的不好啊
觉得有种歌给错人的感觉
贴吧拳王争霸赛中累计获取100场胜利
這首歌好悲很好聽但音對啊羞來說太高了
旋律很动听,斋藤的略带沙哑的嗓音也恰如其分地诠释着歌词,细弱的换气声更是无比动人,期待高解析音源放出!
真的是小鸟出壳了。要飞了我小鸟。
这歌 好听是好听 但是感觉难度挺高啊 主歌变调多 副歌全高音 小鸟Live要加油嘞
听了真的想哭歌词好戳人
初听感觉不错
这首歌live真是太难了
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7. 映画版のリナの设定をめぐって というわけで、原作の、性的に奔放で根っからのサディストという、かなり常轨を逸したリナのキャラクターは、映画版では「ハードな不良少女」というくらいのレベルに抑えられている。原作からそのまま映画に残された、リナの身胜手さを象徴するエピソードは(1)冒头の、クラスメートのヒロコの彼氏を寝取るシーン、(2)通学バスのなかで、视覚障害の少女(风花)が目の前に立っているのに、席をゆずろうとしないシーン、(3)初めて身体に异変を感じたリナが、自分は妊娠したのではないかと疑い、すぐに心当たりの男(小林且弥)を呼び出して「あんたのガキだよ、责任とってよ」と手术费用を出させるシーン、この三つくらいである。三番目についてはちょっとひどいな。结局、妊娠してないことが分かって、リナはその金でいつものクラブに行き、札びらを切ってドンペリを入れて豪游するのである。だからこれもゆすりたかりの一种だ。  でもまあ、最初は堕胎费用のつもりで出させた金なので、もとから恐喝目的ではなかった、とは言える。だいいち「责任とってよ」といわれて、すぐに金を払う男も男だ。私だったらまず妊娠検査薬を渡して「トイレに行ってこい」と言う。金なんかないし。いや冗谈ですってば。 ともかくこの程度だと、确かにリナはどうしようもなくワガママで自己中心的な女だが、见方を変えれば、M14さんがレビュー(后编)で书いているように、彼女は彼女なりに、自分のルールと価値観に従って生きていて、ただそれが一般社会の基准とずれているだけなのだ、と解釈することもできなくはないのである。 また原作では、リナに同情し、闘病中のリナを応援する人物として、マキとカナエと、病院の妇长(大谷直子)、あとはただおろおろとリナの言いなりになっている母亲(宫崎美子)ぐらいしか出てこない。リナの夜のお仲间で、リナを心配する人物は、原作にはひとりもいない。ヒロコは、最初に彼氏をリナに寝取られてから、ずっとリナを憎み続ける。冒头でDJの洋介をリナに绍介したエミは、リナが夜の女王でいる间はリナにつきまとっていたが、闘病生活でリナが别人のようにやつれ果てると、离れていく。憔悴したリナが、抜け落ちた髪を隠すカツラをかぶってクラブに姿を见せ、以前のように傍若无人に「あんた、あたしのことを最高の友达だって言ってただろ」とエミに言うと、エミはキレて「はぁ?友达?今のリナに友达の価値あんの?」と返す。そして病院にリナの见舞いに来る。「ヒロコが、昔のクラブの女王がどうなったか见たいって言うからさぁ」と、ヒロコと一绪に、みじめなリナをあざ笑いにやって来るのだ。
でも映画版のエミ(松嶋初音)は、軽薄ではあるがそれなりにリナの味方だ。可爱くて、イケてる男を手玉にとって、自立しているリナの生き方に、あこがれているような感じである。ヒロコと一绪にリナを见舞いに来る场面でも、いまはヒロコがクラブでブイブイ言わせているからヒロコについているけど、やっぱりリナが好き、という気持ちをちらちらと伺わせる。このエミの描き方ひとつで、リナの印象が原作とはだいぶ违ってくる。同性からあこがれられるような魅力ももっている少女なのだ。それからもう一人は、リナのなじみのクラブでバーテンをやっている仁科克基。ご存知『ウルトラマンメビウス』のアイハラ・リュウだ。これは原作にはまったく出てこない。クラブの男たちが、みんなあわよくばリナと寝たいと思っているようにしか见えないなかで、彼一人が、そういう目でリナを见ていなくて、アニキみたいな感じでリナを见守っている。そして洋介がリナを思う真剣な気持ちを、リナに伝えてやったりもするのだ。この二人の、わりとリナに好意的な人物の视点が加わることで、映画版は原作よりはるかにリナに感情移入しやすくなっている。
8. 原理主义 このように映画版は、主人公の性格を中心に、物语全体が、わりとストレートでオーソドックスな「难病もの」の変种の形に落ち着いている。でもこの作者のから、过激な性描写と人物のエキセントリックな行动を抜いてしまうと、后には非常に地味で类型的な话しか残らない。となると、后はそれを「どう见せるか」という问题になってくる。つまり监督の方法论が问われるわけである。 この作品の监督は両沢和幸。にっかつの出身らしい。テレビドラマの世界ではビッグネームで、プロデューサー・脚本・演出と何でもこなす才人だ。私はこの人の『ナースのお仕事』シリーズをよく家族と一绪に観ていた。観月ありさ主演。この日记の第92回 で书いたように、は観月ありさをモデルに火野レイのキャラクターを考えた。その火野レイを演じたが、『ナースのお仕事』を作った监督と、病院を舞台にした映画を撮っているのである。人生いろいろ因縁がある。ついでに言えば、観月ありさ主演のテレビドラマ『鬼嫁日记 いい汤だな』に出てくる尼僧(野际阳子)の坊主头を担当した特殊メイクの江川悦子が、『Dear Friends』では北川景子のために坊主头のカツラや胸の伤を制作した。北川景子の胸の型どりをしたのは男性ではなかったわけで、みなさま安心されよ。 くだらぬ话ですまん。ともかく、『ナースのお仕事』で病院での撮影に惯れている、というのが、この作品が両沢监督に决まった理由のひとつではないかと思う。 その病院のシーンも含めて、この映画は全编にわたって、手持ちカメラによる长回しが非常に目立つ。构図を决めてカメラを据えるのではなく、に演技させておいて、カメラはそれをずーっと追う、というパターンが多いのだ。北川景子が歩けば、カメラは彼女を画面の中心から外さないように、ただそれだけに注意して、ひたすらついて行く。そして北川景子が立ち止まると、カメラは回り込んで、その表情をできるだけ正面からとらえようとする。カットが割れているシーンでも、もともとはつながってるテイクを、编集で切ったような场合が多い。
 つまり监督は、この古典的で地味な物语を、凝ったカメラワークや构図などの技巧で见せるのではなく、とことん主演女优を前面に立てて、彼女自身のナマの魅力で见せていく方向で构成した。言い换えれば、北川景子の存在感と演技にすべてを托したのだ。北川さんの侧から言えば、いきなり作品の成否のカギをにぎるポジションに立たされたわけだ。主演だから当然と言えば当然だが、ふつう、まだまだ新人と言ってもいい売り出し中の女优を主演に据えるなら、监督以下スタッフの侧が、なんとか彼女を主演らしく盛り立てよう、とする方向で动くものである。でもこの作品では、监督は北川景子に思い切って下駄をあずけた。これはちょっとした冒険ではなかったかと思う。そして、ファンの我々でさえ惊いたことに、北川さんはその期待に十二分に応え、主演女优として见事に大役を果たしたのだ。 病院に行こうとしないアバズレ娘に匙を投げた父亲(大杉涟)が、势いあまって「お前は、ガンなんだよ。自业自得だ、お前にお似合いの病気だ」と告知してしまったときのリナの反応、治疗の副作用で髪の毛を失った少女カナエの前で「あんたと私は友达って言うか、仲间なんだよ」と言いながら、帽子を脱いで、自分もすっかり髪を失ってしまった头を见せるときのリナの表情、そして乳房を切除した后、洋介の前で胸を开いてみせる先述のシーン、どれも原作にある场面だ。でも「それはリナが初めて见せる表情だった」「リナはぶっきらぼうに言った」「リナは决心して言った」などといった纹切り型の文章で缀られた原作に対して、この映画の北川景子の表现がどれほど豊かなものであるか、できればぜひ、原作と映像を较べて欲しい。と言いたいところだが、それでみなさんが原作を买って原作者に印税が入るのも非常に腹立たしいので、小说の方は立ち読みでもしてください。
9. 本仮屋さんも好演しています というあたりでレビューを终えたいが、本仮屋ユイカさん演じるマキについて一言も书いていないね。DVDのジャケットでは二人并んでいるのに。 マキもなかなかいい芝居しています。ただ映画は、原作よりも视点をリナの方にあわせているので、マキの物语は、さらに一歩、背景に退いている。たとえば原作では、マキがリナに向かって、自分がイジメの被害者で、リストカットの常习者であったことを告白する、比较的长いモノローグがある。でも映画にそれはない。その后、病気に绝望したリナが病院の屋上から飞び降りようとするとき、駆けつけたマキがいきなりカッターナイフを出して「あたしもリナちゃんと同じ痛みを味わう!」と自分の胸を伤つける。原作を読んでいれば、ああこれはリストカット用のナイフだと分かるのだが。映画では分からない。映画でもリストカットの件は触れられるが、それは「マキはなぜカバンの中にカッターを持っていたか」の种明かしとして、后から言及されるのだ。 あるいは原作では、リナが胸の手术を受ける场面で、実はそれを不安げに见守るマキ自身、全身の筋肉が次第に萎缩していく特殊な病気にかかっていることが明かされる。その病状が本格的に悪化してくるので、マキは手术后、リナの前から姿を消してしまう。だから、退院したリナは「なぜマキは来ないんだろう?」といぶかしんでいるが、読者は理由を知っている。でも映画ではその说明がずっと最后の方まで后回しにされて、リナがその事実を知るのと同じタイミングで観客に知らされる。 リナを主人公としながらも、一応「リナとマキ」のお话としてまとめられた原作に対して、映画はあくまでもリナに焦点を绞っている。そんなわけでマキにはあまり触れませんでしたが、本仮屋さん、热演でありました。 まあとにかくそういうわけで、初めに书いたように、案じていたよりもはるかにちゃんとした映画で、私はほっと胸をなでおろした。でもこの原作者の映画に、もう北川さんには出て欲しくないのも事実だ。こっちの心労が増える。
10. おまけの谜 ついでだ。これは剧场公开时にあったのか、それともDVDだけについているのかは分からないが、全编が终わった后、こんな奇妙な字幕が出る。この物语はフィクションであり、登场する人物・団体等、名称は、実在のものとは関系ありません おかしいではないか。だって『Deep Love』の时と同様、Yoshiはこの『Dear Friends』の后书きでも、はっきり「なお、今回も物语の内容の一部は、病に倒れたある少女の実话を元に书かせていただきました」と书いているのだ。なのにその映画版が「実在のものとは関系ありません」ってどういうことだよ。と思ってもう一度この字幕をよく読んでみた。するとこの日本语、変なのだ。「登场する人物・団体等は」ではなく「登场する人物・団体等、名称は」実在のものとは関系ない、と言っているのである。つまり话の一部は実话に基づいているが、「リナ」とか「マキ」とか、あるいは「青叶会総合病院」とかの「名称は」仮名だという意味なのか。なんでわざわざこんな注意书きをつけるのだろうか。この作品がPG指定を免れたことと并ぶ谜である。よくわかんな~い。 遅くなりましたが、北川景子さん、21歳の诞生日おめでとうございます。こんなレビューで申し訳ない。【作品データ】『Dear Friends ディア フレンズ』 配给:东映/制作:『Dear Friends』制作委员会/日公开/115分/カラー/ヴィスタ<スタッフ>企画:中曽根千治/プロデューサー:河瀬光/监督:両沢和幸/原作:Yoshi/脚本:両沢和幸・三浦有为子/音楽:藤原いくろう/撮影:上野彰吾/照明:赤津淳一/美术:和田洋/录音:室薗刚/编集:大畑英亮<キャスト>リナ:北川景子/マキ:本仮屋ユイカ/洋介:黄川田将也/ヒロコ:通山爱里/カナエ:佐々木麻绪/エミ:松嶋初音/バーテン:仁科克基/リナの母:宫崎美子/リナの父:大杉涟/医师:小市慢太郎/妇长:大谷直子/看护士:野波麻帆/少女时代のリナ:小林爱里香/少女时代のマキ:安藤咲良/バスのおばちゃん:根岸季衣/盲目の少女:西川风花
【第106回】DVD第1巻:Act.4の巻(その1)いきなりローカルな话题ですが、地下鉄东山线の栄駅のホームの柱で北川景子のポスターを见た。いわゆるDocomoのやつで、他の柱には长瀬君とか苍井さんとかがいるので、别にどうってことない。でもカシオペアさんによると、いまもなお「景子といえば竹下景子」のこの名古屋で、他の「景子」がピンでポスターが贴られていること自体、レアなのだそうだ。だから记念に写真でも撮ってブログに贴ろうとも思ったが、デジカメを持ってなかったのである。このあたり、ダーツの合间もカメラを手放さないカシオペアさんの、人生に対する取り组みに学ばなければいけないと思う。北川さんと言えば、D.Sさんのブログで『ヒートアイランド』のHPリニューアルを知り、予告编などを観たが、これがまるで北川景子のような北川景子だった。でも前にも书いたが、私は北川さんには当分の间、もう少し清楚な、纯和风の女性の役を演じて贳いたいのである。ケバい役は20年后でいい。20年后に东映が『极道の妻たち』をリメイクするとき、岩下志麻の迹目を継げるのはいまのところ北川景子しかいない。私もそれまで生きていたら観に行く。とにかく今は清楚な和风の役だ。それと以前、こっちよ!さんが、北川さんなら『トゥーランドー』の映画化にピッタリ、なんてコメントされたのを読んでから、やはり血の匂いもしないといけないかなあ、なんて思うようになってしまった。和风で清楚で血の匂い、というと、やはり横沟正史シリーズのヒロインである。北川さんに関して言うと、私は『女王蜂』なんかいいと思う。そしてついでに『悪魔の手毬呗』のヒロインは小松彩夏がいいと思う。『悪魔の手毬呗』の别所千恵子は、东京で「大空ゆかり」の芸名でアイドルになって、久しぶりに冈山の鬼首村に帰郷した、という设定だから、小松彩夏には一曲ぐらい歌を歌ってほしい。というか、小松彩夏はドラマや映画に出るたびに必ず最低一曲は歌を歌うことを义务づけたい。あと冈山弁の指导はぽんたさんがやればいいと思う。何が言いたいのか自分でも分からなくなってきたところで本题だ。Act.4レビューです。
1. メモリーズ放送当时のことを思い出してみると、Act. 4というのは、実写版セーラームーンが、最初に曲がったコーナーというか、最初に踏んだ石というか、そういうエピソードだという気がする。実写版の放送が始まって、あっという间にその世界に魅了された私は、他の人々の感想はどんなもんだろうか、ということが気になってきて、ネットを探索するようになった。结局、超有名な某巨大掲示板の特撮スレッドを中心に、いくつかのサイトを定期的に覗くようになったのだが、ただあそこは、アニメ至上主义者や、あるいはセラミュ命といった保守反动の人たちが、初めから厳しい眼で、手ぐすね引いて待っているような场所でもあった。なんでそんなサイトを好きこのんで、と思われるかも知れないが、実は私自身もセラミュのファンで、実写版の登场でセラミュの影が薄くなることを案じていた一人でもあったので、そのへんの方々の反応が、いちばん気になっていたのである。で、様々な书き込みを読んでみると、はたして保守派からは「ルナはぬいぐるみかよ」「実写であのカツラはやっぱりヘン」「亜美のキャラクターが违いすぎる」などの异论が、すでに続々と飞びだしていた。でも私はまあ、そのくらいは仕方ないよな、と思った。むしろ予想したほど辛辣な意见はなくて、ほっと胸をなで下ろしたくらいだ。それはなぜかというと、やはりその真っ直ぐさに「虚を突かれた」という感じだったのではないかと思う。そもそもセーラームーンの実写版と闻いた当初、特撮ファンはだれもが大なり小なり、ちゅうかなぱいぱいとかポワトリンとか、そういう浦沢义雄的ナンセンス・コメディ路线を予想していた。违うかな。少なくとも私はそうだった。ところが小林靖子と田崎竜太は、惊くほどストレートな直球を(「ストレートな直球」というもの変な言い方だが)、ストライクゾーンど真ん中に投げこんできたのだ。それは「この作品は、不思议少女でも月曜ドラマランドでも新春隠し芸でもない。照れもてらいもなく、本気で作りますよ」というメッセージだった。そしてそれは、一部のアニメ派やミュージカル派のかまびすしい突っ込みをねじ伏せるだけの力をもっていた。だからAct.1とAct.2が放送された段阶では、さほどアニメびいきではない无党派层や原作派はもとより、アニメ原理主义者やセラミュ派の保守势力も、まだ「けっこう真面目に作っているようだし、どういうふうになるか、もう少し様子を见ようじゃないか」という、比较的おだやかな态度をとっていたと思う。しかし田崎监督の次に投入されたのが高丸监督だったのである。これはちょっと不运なことでした。それでもAct.3の时は、それほど演出に対する非难の声は上がらなかった。だって北川景子の登场が话题をさらっていたからね。でもAct.4はそうはいかなかった。新戦士登场というイベントもなかったので、保守派も中立派も「そろそろこのあたりで、ドラマそのものを落ち着いて吟味してみようか」という雰囲になっていたのだ。そこへあの、后半のバトルに象徴されるグダグダな高丸演出である。こういう下手を待ちかまえていたアニメ原理主义者は「そら见たことか」と势いづき、それまで中立的だった无党派层も「结局、Act.1とAct.2の紧张感は、そう长くは持続できないってことね」と见切りをつけた。こうして、特撮オタクな人々の间における実写版の支持率は、このAct.4を境に、安倍内阁なみに低下してしまった。 そういう意味で、Act.4って、実写版にとってひとつの「つまずきの石」だったかなとも思う。最初の2话の路线を引き継いで、このAct.3とAct.4を盘石に固めて、名作Act.5へとつなげていれば、最初の一ヶ月で、无党派层の取り込みに成功していたのではなかろうか。そうすれば実写版セーラームーンは、今の『仮面ライダー电王』人気(かなりの人気のようですね)に匹敌するぐらいの支持率を得られたのではなかろうか。なんて、ただの妄想ですね。
2. 反省しろ!しかしそれにしてもなぜ高丸演出は、これほど一斉に非难を浴びたのか。それはたぶん、演出が上手いとか下手とか以前の、いわば心构えの面で、多くの反感を买ってしまったからなのだ。この日记の第92回で触れたときにはサイトが移転中であった『失はれた周末』が、その后めでたく再公开されたので(ここ)最近ヒマをみてはぼつぼつ読んでいるのだけど、Act.4レビュー、面白いね。彻头彻尾、高丸监督を吊し上げている。ここまで彻底しているといっそ痛快で、読后感はすがすがしい(本当か?)。ほぼリアルタイムで书かれた高丸批判の最も先锐的な一例だ。レビュー前半は、アクションシーン演出に対する批判が中心であり、后半は、脚本に示された少女たちの心理剧の検证と、それが一向に読めていない监督への容赦のない骂倒である。で「(高丸监督の)次のローテはAct.11、Act.12だそうな…また来るのかよ、もう二度と来なくていいのに」ときて、最后は「ああもう、縁起悪いから塩でも撒いとけ!」と结ばれている。何もそこまで。まあしかし、ここまでこき下ろしておきながら、それで见切りをつけることもなく、黒猫亭とむざう氏は延々と実写版レビューをお続けになっているわけですけれどもね。しかも途中からどんどんペースダウンして、未だに未完。でも最近ようやくAct.48がアップされた。ともかく、そこで指摘されているように、确かにAct.3、Act.4の演出には、ちょっと特撮番组をナメた态度がちらほら伺える。高丸监督はもともと一般ドラマの演出家だった。だから特撮ものって「ヘンなもの」、もっと言ってしまえば「真剣にドラマを作り込むような対象ではない」という见下した気持ちが、やはりどこかにあったのではないだろうか。美奈子の歌にあわせて三人で妖魔を同时攻撃するなんてアイデア、そりゃバカバカしいと言えばバカバカしいよ。でもそういう子供番组の枠组みの中で、ここで三人の息が合う、という大事なポイントをどう表现するか、そこに知恵を绞るのが演出家の役割だ。ところが高丸监督は「バッカじゃない」と言わんばかりに演出を投げている。不真面目である。あるいはぐっと好意的に、初めて手がける児童向け特撮ものをどう撮っていいか戸惑っていたのだ、と解釈してもいいが、いずれにせよ、Act.4の后半、各戦士が変身してから后のパートの随所に、黒猫亭さんの言叶を借りれば「どう见ても変なコトしてるようにしか见えないんだが、特撮ヒーロー番组というのはそういうものなんだろう」という、监督の突き放したような、醒めた视线が感じられるのだ。しかもAct.1、Act.2の直球ストレートな田崎演出と、Act.5、Act.6の情热的な舞原演出とに挟まっているだけに、その印象はことさら强い。高丸监督、第一印象は完全にアウトである。アニメ原理主义者やセラミュファンが、このAct.4を机に本格的な実写版叩きに転じたのは、具体的に演出がまずかったからというよりも、まずこういう监督の基本的スタンス、傲慢さというか、特撮番组への爱情の欠如に対する反感、という部分がおおきかったように思う。そしてこの件に関しては、かなりの実写版ファンもまた同意见なのだ。たぶん本人も知らず知らずのうちに、オタク全般にケンカを売ってしまったんですね。残念なことだ。 と、あれこれ书いたが、Act.4の初放送は日だから、今からもう4年近くも前のことだ。そして私は、40歳を过ぎてから、加速度的に记忆力が落ちているし、しかも、思い出してもアイマイな部分は自分の主観にあわせて过去をねじ曲げる性癖もあるもんですから(まあ人间だいたいそんなものかもね)以上に述べたことが、皆さんの记忆しておられる当时の印象と合致しているかどうか、実は心もとない。どうでしょうか?
3. ドレスをまとわないプリンセス放送当时の状况の话はそのくらいにして、Act.4って、作品そのものをとっても、実写版の「最初の曲がり角」となったエピソードではないかと、改めて思う。まず形式的な面から言うと、ここで初めて、前のエピソードから话が続いて、前后编で完结、というスタイルがとられる。セーラームーンでも、仮面ライダーでおなじみの二话构成の手法を采用することが、视聴者に示されたのである。また内容的には、はじめて原作への积极的な挑戦が试みられた回である。もちろん、Act.1、Act.2、そしてAct.3と、実写版は少しずつ原作のプロットにアレンジを加えて、次第に独自の世界を筑いてきた。しかしこのAct.4に至って、いよいよ小林靖子は原作のテーマに対する、ある意味でアンチテーゼを出してきたのである。このことについては、すでに再放送レビューに书いたが、もう一度触れておきたい。原作漫画第4话は、来日中の「ダイヤモンド王国」の王女プリンセス・ダイヤモンドと、彼女が日本に持って来た王国の秘宝をめぐる冒険物语だ。この秘宝が幻の银水晶ではないか、ということで、セーラー戦士も地场卫もネフライトも、大使馆で开催される晩餐会(仮面舞踏会)に潜り込む。アニメ无印第第22话「月下のロマンス!うさぎの初キッス」も、ほとんど原作どおりの话である。ここで原作が「外国の王女が主催する晩餐会」という场面を设定したのは、その晩餐会(仮面舞踏会)に潜入するためにフォーマルな衣裳にドレスアップした月野うさぎと、タキシード仮面に扮した地场卫(というのも、これまた変な言い方だね)がばったり出会い、お互いの姿を见て、互いが月のプリンセスであり、地球の王子であった前世の记忆をぼんやりと呼び醒まされる、という展开のためであった。しかし実写版は、これを「桜木财阀の令嬢、桜木由加の诞生を祝う诞生パーティーの席上で、この家の秘宝である幻の青水晶が公开される」という设定に置きかえた。これはまあ、予算の都合とかの事情もあったのだろう。そのパーティーに潜入するにあたって、うさぎはテレティアで、どんな衣裳で潜り込むか、あれこれ着替えを楽しむのだが、それがどれも、いかにも晩餐会に出席するセレブのようなドレスなのである。けれども结局、彼女はクマの着ぐるみを选ぶ。で、パーティー会场でうさぎはタキシード仮面に出会い、抱きつくが、ドレスならともかく、クマでは原作やアニメのようなロマンスの生まれようもない。结局タキシード仮面に邪険に扱われる。なぜスタッフはわざわざ、ここで寄り道をして、うさぎが次々に豪华なドレスを着る场面を入れてから、クマの着ぐるみに话を进めたのか。もちろんひとつには、メインターゲットである児童女子を楽しませるため、ということがあるだろう。それからもうひとつの推测として、これはスタッフの「本当は原作どおり、こういう衣装でうさぎがタキシード仮面と踊る舞踏会のシーンが撮りたかったんだ。でも予算とか色々あって无理だったんだ」というメッセージなのではないか、ということがある。でもそう考えると、だからといっていきなりクマの着ぐるみというのも、ちょっと自暴自弃なのではないだろうか、という気もする。以前の再放送レビューには、だいたいそんなふうに书いた。で、今回あらためてこのシーンを観ていると、これはどうも「このドラマではうさぎちゃんのお姫様ドレスの姿はそんなに见られません。だからここで大放出しておきますよ」という意味かな、と思ったのである。いやスタッフがそう意図しているかどうかは分からない。というか、たぶんスタッフはそこまで考えていない。いないのだが、结果的に、このシーンはその后の実写版の路线を予告しているのだ。実际、うさぎはAct.1でジュエリーショーに忍び込むために大人っぽいドレスをまとい、このAct.4で、あれこれのゴージャスなドレスを试し、それを最后に、ほとんど「プリンセス」らしいドレスを身にまとっていないと思う。アニメのセーラームーンは、シリーズごとの最终回とか、决めどころでプリンセスのドレス姿になって戦っていた。特に、あらためて言うまでもないだろうけど『剧场版セーラームーンR』のクライマックスなんてすごくよかった。BGMに「ムーン・リベンジ」が流れると、うさぎはプリンセス、卫はエンディミオンの姿になってさあ。あ、なんか私、泣いてる(バカ)。でも実写版セーラームーンは「うさぎが前世のプリンセス・セレニティの姿にはならない」物语だ。回想シーン以外でそういう姿になるのは、わずかに「エンディミオーン!」と叫んだAct.24のラストから、Act.25の冒头にかけて。あとはFinal Actでほんのワンシーン。それだけ。しかもほとんどやっつけ仕事みたいなドレスだった。现世のうさぎと卫がプリンセスとエンディミオンの姿になるツーショットも、Final Actのワンシーンだけだ。卫はタキシード仮面の衣裳を舍ててからは、Act.32やAct.35やAct.39やAct.43などでエンディミオンの姿で闘うのに、その傍らに、プリンセスがドレス姿で寄り添う姿はとうとう拝めない。うさぎがプリンセスのドレス姿にならないということは、つまり「前世からの运命にしたがって结ばれる恋人同士」という少女漫画的ロマンスを舍てるということだ。原作のうさぎにとって前世とは、优雅な舞踏会や、楽しかった远い日々のおぼろげな记忆であり、时に彼女はそのなかにまどろむ。でも実写版のうさぎは、そんなふうに、前世のプリンセスとして甘い追想に身をゆだねることを许されていない。実写版のうさぎにとって、前世とは暴走するプリンセス・ムーンだ。荒凉たる过去の亡霊である。それは、いまを生きる女の子として新しい运命を切り开こうとする彼女の前に立ちはだかる障害でしかない。舞踏会と豪华なドレスで「前世からの恋」というテーマをロマンチックに盛り上げた原作第4话を脚色するにあたって、小林靖子は、あえてうさぎに色々とドレスを着せてから、最终的にそれを舍てさせて、あろうことか「クマの着ぐるみ」を着せた。それは実写版を、原作のような「予定调和の」プリンセス・ストーリーにはしない、という挑戦状だ。そんなのはつまらない。だからラストでうさぎは「C'est la vie」を口ずさんだのだ。これから始まる実写版の恋の物语は、原作とは「少しズレ」てて「面白い」よ、という宣言である。ひとまずそういうふうに考えておきます。「クマ」であることまで台本に指定があったかどうかは分からないが「うさぎが着ぐるみを着る」というアイデア自体は小林靖子のものだろう。『M14の追忆』に绍介されたAct.41台本にも、児童馆でうさぎや亜美やなるが着ぐるみを着ることはちゃんと书かれている。あ、でもあの回は、まことが「新种の亀」になるところがポイントだから当然と言えば当然か。しかし最近の『电王』でもイマジンが着ぐるみを着る回があったし、基本的に小林靖子は着ぐるみ好きなんだと思う。
4. 火野レイとしての高丸雅隆さてそれでは话を戻して、Act.4の高丸演出の问题点はいったいどの辺にあるのか、具体的にDVDをチェックしてみよう……と思ったが、もうだいぶ字数を费やしたので、それは来周の课题としたい(すっかり周一回更新体制が身についてしまった)。というわけで、次回は『失はれた周末』ほどではないにせよ、少々きびしく高丸监督を追求することになるかと思う。しかし私は、というか、このブログは、そんな初期高丸监督作品にさえ救いの手を差し伸べる博爱精神を売り物にしている(そうだったのか?)。そこであらかじめ言わせていただくが、みなさんAct.4の高丸演出がヘタレだからって、そう安易に责めてもらっては困る。それはAct.3で、うさぎたちの仲间に入らなかった火野レイを「こいつ自己チュー」と责めるのと同じことである。そう、レイの登场と共に実写版の世界に入ってきた高丸监督は、実は火野レイそのものなのだ。最初は、监督ローテーションに加わりはしたが、一般ドラマのフリー演出家として「特撮は嫌い」「私、あなたたちの仲间になったつもりはないの」と突っ张っていた高丸雅隆。しかし东映スタッフと一绪に仕事をしているうちに、その真挚な姿势に动かされ、少しずつ心を开いてゆく。そして「前世なんか无视すればいいのに」とうそぶいて、东映特撮アクションの伝统的手法をないがしろにしていた初期の不逊な态度も、それがスーパー戦队やライダーなどの长年の蓄积に裏打ちされた、必然性のあるしっかりしたメソッドであることを学习するにつれ、だんだんと改められていく。でも実写版セーラームーンは、ルーティンを漫然と再生产するだけの戦いではなかった。长い歴史の中で确立された东映特撮ドラマの枠组みを、内侧からどれだけ乗りこえられるかという、「前世の使命を果たして、使命を终わらせるため」の戦いであったのだ。こうして高丸雅隆は戦士の力に目ざめていく。第2クールが终わったあたりから。ね、まさしく火野レイと同じ轨迹をたどっているではないか。しかしこんな私のフォローの甲斐もなく、この人は今年に入って「特撮ヒーロー番组なんてこんなもんでしょ」というコンセプトを地でいくような『美少女戦丽舞パンシャーヌ 奥様はスーパーヒロイン!』を撮ってしまったのである。まったく私の気苦労をどうしてくれるのか高丸雅隆。
【第107回】小林靖子は変わったのか?(映画『剧场版 仮面ライダー电王 俺、诞生!』レビュー)関西支部のご主人を后押しするかのように、阪神は惊异的なペースで元気を回复して8连胜、首位に迫りつつある。リハビリ顽张って下さい。一方、私のスランプをさらに蹴り落とすように、中日は3位転落だよ~ん。
1. で、今日の日记は…『仮面ライダー电王』のDVD第1巻を买った。第1巻を买えば全巻そろえたくなる。でも、いい歳して小遣いも少ないのに、こんなことやっていいのか、とだいぶ迷った。结局、买っちゃいました。いや8月に、息子を连れて『剧场版 仮面ライダー电王 俺、诞生!』と『电影版 獣拳戦队ゲキレンジャー ネイネイ!ホウホウ!香港大决戦 』の2本立て(厳密には『モモタロスのなつやすみ』というオマケの短编つきなので3本立て)を観に出かけたんですよ。そしたらすっごく面白くて、映画のパンフレットが売り切れだったこともあり、帰りについつい、迷っていたテレビ版のDVDを买っちゃったわけです。それで先周末、久しぶりに第1话から第4话までをぶっ通しで観て、あらためて思ったのが第4话の重要性だ。最初の2话は、主要登场人物のキャラクターの确立と作品世界の说明が主で、话の筋は従だ。第3话で、各キャラクターが自らの个性に応じて动き出す。そして第4话で、主要登场人物同士の心理的な距离関系がはっきりとしてきて、その后のドラマ的展开が暗示される。実写版セーラームーンも、ほぼ同じパターンを踏んでいて、Act.4で、亜美とレイの心のふれあいとすれ违い、タキシード仮面のセーラームーンに対する想い、といった各キャラクターの関系性が、ほのかに见えてくる。なかなか繊细な回なんですね。再放送レビューの时、原作漫画の第4话に思い入れのある私は、原作との设定上の変更ばかりを気にしていて、もうひとつ脚本が読めていなかったのだ。で、今回の日记は、まずは剧场版の感想をマクラに振って、前半で『电王』と対比しながらAct.4のキャラクター描写を、后半で高丸演出の倾向と対策を考えよう、と思ったわけです。ところがまた脱线してしまった。书き始めたら电王の话がいつまでも终わらなくなってしまったのです。おのれを知るというのはむずかしいものです。というわけで、本日のメイン记事は剧场版『电王』の感想文になってしまいました。
2. セーラームーンから电王へ脚本家が同じなんだから当然だろうという気もするが、とにかく『仮面ライダー电王』って、あちこちでセーラームーンを连想させるドラマである。たとえば敌役にあたる「イマジン」。イマジンとは肉体をもたない、未来からやってきた発光する生命体で、任意の人间に凭依する。そしてその人间の记忆からイメージを借りて、动物や、神话や昔话にでてくる想像上の生き物の姿で実体化する。この、怪物が単体で出没せず、人间に凭依して騒动を起こし、それから実体化するってところが、まずもってセーラームーン初期の妖魔っぽい。だから『电王』には、妖魔に取り凭かれた渡辺典子のなるママや、春木みさよのゼミ讲师や、池田成志の斋藤社长のように、イマジンに凭依される「ゲスト被害者」がエピソードごとに登场する。しかもイマジンは、それらゲスト被害者に凭依して実体化し、この世界で暴れるばかりはでない。凭依した人间の意识にダイブして、その人が最も强く记忆している过去の一时点へとタイムトリップしたりもするのだ。たとえばあるイマジンが取り凭いた少年は、自分の亲不孝のせいで母の死に目に会えなかったことを后悔している。そこでイマジンは彼の记忆をたどって、母亲が亡くなった数年前の夜へ飞ぶ。别のイマジンは、别れた婚约者への未练を断ち切れない女性に凭いて、破谈となったその日へとジャンプする。そしてそれぞれ、その过去の世界でも大暴れするのだ。过去の世界でイマジンが暴れると、歴史が変えられて、现在の世界がめちゃくちゃになってしまう。电王はそれを防ぎ、歴史を修复するために、时の流れを往来する列车デンライナーに乗ってイマジンを追い、戦いを挑む。だいたいこれが电王の物语のフォーマットである。つまりどのエピソードにも、何らかのかたちで、过去の失败や不运をひきずりながら今を生きている人物が登场する。その人物はイマジンに凭依されることで、封印していた过去を直视せざるを得なくなる。しかし逆にその体験を通して、过去を克服するきっかけを手に入れていく。电王はイマジンと戦いながら、その过程をひそかに见守り、时には时间の流れにちょっとだけ干渉して、その人が现在を生きる勇気を获得できるよう、手助けをするのである。なぜ人生は、一瞬一瞬がやり直しのきかない选択の连続なのだろう、などと考えながら。同时に、电王となる主人公には记忆丧失の姉(松本若菜)がいて、この姉の空白の过去には、なにかドラマの根干に関わる大きな秘密がひそんでいるようなのだ。それが何であるかは、まだはっきりと明らかにされていない。実写版セーラームーンも、前世の悲剧という巨大な过去にひきずられ、あるいは前世を否定しようとしていた少女たちが、ダーク・キングダムとの戦いを契机に、今を生きるために前世を直视し、克服しようと决意する物语であり、しかもそのなかに、个々の戦士たちの、个别の过去の物语が包み込まれていた。やっぱり似ている。特に、幼女时代に受けた心の伤が原因で、成长后も父亲と反目するレイや、过去の失恋の痛手が愈えずに、目の前の优しい男性に心を开けないまことの话なんか、まるで电王のエピソードみたいにも见える。もうひとつの両者の共通点は、多重人格テーマだ。主人公の野上良太郎(佐藤健)は、デンライナーでこの世界にやって来た谜の美少女、ハナ(白鸟百合子)から、电王として戦う使命を与えられる。しかし良太郎は、もともと善良で心の优しい、およそ争いごとには不向きな少年であり、そのまま変身して戦っても、イマジンを倒すどころかかえってボコボコにされてしまう。そんな良太郎に力を添えるのがモモタロス(中の人:高岩成二/声:関俊彦)だ。モモタロスもイマジンで、良太郎に凭依し、记忆の中にあった『桃太郎』の絵本の鬼からイメージを借りて実体化したので、そう呼ばれるようになった。ところが、モモタロスが凭依した状态で変身すると、电王はそのパワーを取り込んで、基本フォームから、より高い戦闘机能をそなえたソードフォームに変形し、圧倒的に强くなるのだ。で、良太郎の性格が気に入ったモモタロスは、本来のイマジンとしての使命をはたすよりも、良太郎と一绪に电王となって、ほかのイマジン相手に大暴れする方がおもしろいやと、良太郎に凭依し続ける。良太郎にとっても、力强い加势だ。ただイマジンが凭依すると、人はそのイマジンに人格を支配されるのである。だからモモタロスが凭いた良太郎は、ふだんの気弱な彼とは一転して、短気で见栄っ张りな乱暴者になる。戦闘时はそれでいいが、普段にもひょっこり凭依されて、いきなり颜つきが変わり、目がギラギラして、振る舞いが横柄になったりするのだ。はたから见れば人格分裂者である。しかも话が进むと、『浦岛太郎』の海亀のイメージが実体化したウラタロスや、それにキンタロス、リュウタロスといった新たなイマジンが良太郎に凭依する。そのおかげで良太郎は、戦闘时には、状况に合わせて様々なフォームの电王に変形できるようになるわけだが、みんな个性的なメンバーなので、日常生活はさらに混乱する。时にナンパ野郎になったり、仁义に厚いナニワのど根性男になったり、阳気でダンス好きでワガママな现代っ子になったり、くるくると色々な人格が出たり入ったりするのだ。この、戦闘モードの别人格を背负い込むことになった主人公、という设定が(『龙骑』の「契约モンスター」を连想させつつも)やはりセーラームーンっぽいのだ。まったく性格の异なるイマジンに凭依されて身体がボロボロになりながら、なんとか折り合いをつけてそのパワーをうまく戦いに活かそうと苦労する良太郎の姿には、トーンは违うが、プリンセス・ムーンの暴走を克服しようとするうさぎのイメージが、どうしても重なってしまうのである。ほかにも、时の列车デンライナーの食堂车と、クラウンのカラオケルームが物语でしめる役割の共通性とか、兴味深いポイントはまだあるのだが、话がいつまでたっても剧场版に进まないので、もうこのくらいにしておく。総じて『仮面ライダー电王』は、実写版セーラームーンのモチーフを、より単纯で分かりやすいプロットと、より娯楽性を高めたアレンジで、ふたたび取り上げた作品のように思える。とにかく楽しい。ただ、まだあと20话ほどを残している段阶なので、最终的な评価は控えたい。后半はおそらく、主人公の记忆丧失の姉と、その婚约者をめぐる谜をメインに话が进んでいくはずである。セーラームーンで言えば、前世の悲剧とメタリアの谜をめぐるパートに入っていくわけで、ひょっとするとこれからの『电王』も、后期セーラームーンのような重苦しい大河ドラマになるかも知れない。それでも(実験的な野心作であったがそれゆえに)视聴者不在の番组になってしまったセーラームーンとは违い、电王は最后まで、メインの视聴者となる男子児童の兴味をつかみ続けていられるんじゃないかな、と思う。それは、短気でおっちょこちょいで见栄っ张りで、乱暴だけど根は良い奴、モモタロスの阳性の魅力が、すでに浸透しているからだ。モモタロスは、この番组のメインの视聴者となる男の子たちのお友だちだ。彼が彼のままでいる限り、小学生はみんな最后までついて行くだろう。タイムレンジャーやセーラームーンの小林靖子には、ひたすら面白いドラマ作りを追求してのめり込んで、ふと気がついたら、番组が本来ターゲットとしていたよい子のお友だちを、远く置き去りにしてしまっていたようなところがあった。でも今回は明らかに违う。これは小林靖子の変貌を意味するのだろうか。つまり彼女はマーケティング意识にめざめたのか?そうかも知れないけど、そうじゃないかも知れない。『电王』も、単にこれまでどおり「みんなが楽しめる、面白い物语を」と思って书いているだけのようにも见える。その辺がよく分からないのだが、ともかく结果的には、『电王』は変身好きな少年たちにがっちりアピールして、大好评放映中である。そして今回の剧场版『电王』は、小林靖子がそういう反响に自信をもって、いま乗りにのっている感じが、観ているこちらにも伝わるような快作となった。
3. ようやく剧场版の话剧场版ライダーの脚本家は、第1作目の『アギト』(2001年)から第5作目の『响鬼』(2005年)までが井上敏树で、昨年の第6作『カブト』(2006年)は米村正二であった。そして今回が小林靖子だ。小林靖子はデジモンなど、アニメの剧场版を几つか手がけているが、実写作品でのスクリーンへの登场はこれが初めてのはずだ。もっとも、今回の『电王』の上映时间は1时间强。いつもの剧场版ライダーよりちょっと短めで、长さはセーラームーンの番外编ビデオ『Special Act』とたいして変わらないはずだ。调べてみると69分とあるが、これって本编に先だって上映された、3分くらいのパロディ风の短编『モモタロスのなつやすみ』とあわせた时间かも知れない。とすると正味65分というところか。さて、今回の剧场版『电王』には、过去のライダーと大きく异なる点がひとつある。これまでの剧场版ライダーは、いずれもテレビシリーズの外伝だったり、マルチエンディング的「もうひとつの结末」だったり、キャラクターは共通しても设定が别だったり、はては戦国时代だったりと、要するに「番外编」的あつかいで、テレビシリーズにダイレクトにつながる内容にはなっていなかった。ところがこの剧场版『电王』(日公开)は、そこがまったく违っていて、テレビ版の第27话「ダイヤを乱す牙」(日放送)と第28话「ツキすぎ、ノリすぎ、変わりすぎ」(日放送)の间に入る、いわば「第27.5话」なのである。これは一种のティザー広告なのだろう。実际、テレビの第26话、第27话なんて、完全に剧场版のプロモーションというか、大がかりな予告编みたいなものである。それが证拠にラストは「続きは剧场でお楽しみ下さい」と结ばれている。そして第28话は、剧场版の事件が终わってやれやれ、という打ち上げパーティーみたいな场面から始まる后日谈だ。こりゃテレビの前のお友だちは映画馆に駆けつけたくなるよね。とにかく煽りに煽っている。昨年の剧场版『カブト』と『ボウケンジャー』は、ライバルに75亿円以上も稼いだ『ゲド戦记』がいたこともあって、兴行的にもうひとつふるわず、10亿の大台に乗らなかったそうだし、今年はフジテレビが局を挙げて『西游记』を大々的にプロモーションしている。そういう事情もあっての、必死の宣伝策だったのだろう。実际、その効果は大きかった。もちろんテレビの『电王』自体が好评ということもあるだろうが、ともかく封切り周のランキングでは『トランスフォーマー』と『レミーのおいしいレストラン』と『ハリー・ポッターとナントカのナントカ』の后につけて邦画トップに跃り出て、その后も、ポケモンや『西游记』といった国内の强豪と竞り合いながら4周间(8月いっぱい)兴行成绩のベストテン圏内にとどまったのだから、これはもう大健闘と言えるだろう。昨年の『カブト』『ボウケンジャー』の兴行収益(9亿円)はすでにクリアして、最终的には过去最高だった2003年の『555』『アバレンジャー』(15亿円)を越える可能性も见えてきた。(兴行成绩については最后の方をご覧ください)そして肝心の、作品そのものの内容もなかなか良い。ネタ振りと大ざっぱな状况说明をぜんぶテレビの方で済ませているので、おなじみのモモタロスの决めゼリフどおり「最初からクライマックス」という感じで、事件と见せ场の连続で物语がテンポ良く进んでいく。もちろん、そのせいで、いつも以上に剧场版を単体で観てもよく理解できない话になってしまってはいる。しかし大部分の客はテレビ版のファンだろうから、まずそういうメインの観客のために作る方が正しい、と私は思う。まあ、子どもの付き添いで行って初めて観た保护者の方には我慢してもらうしかないな。それに、テレビ版の热心な视聴者である私が言うのは说得力がないかも知れないけれど、はっきりとターゲットを绞って作られているぶん、この作品には「外の人」をも呼び込む力があると思う。分からないなりにも楽しめて「どういう话なのか、少しテレビも観てみよう」という気にさせるだけの势いが感じられる。だから保护者の方は、お子さんに说明してもらって、これからはテレビ版も観て、亲子のコミュニケーションの一环にしていただければ良いのではないでしょうか。
4. 消えた映画馆その一方で感心したのは、いちおう、様々な事情で剧场に行けないであろうお友だちにも、それなりの配虑がしてあるところだ。确かにこの剧场版は、テレビの第27话と第28话の间に挟まるエピソードあり、これを観ないことには、テレビの方の面白さも半减する。でもテレビだけを観ていると、话がまったくつながらないかと言えば、そこまでではない。主人公の良太郎が乗る「时の列车」デンライナーがハイジャックされ、その首谋者が「牙王」(渡辺裕之)という悪いライダーであること、映画のメインストーリーが、ハイジャックされたデンライナーを追って、みんなで时を远い过去まで遡っていく冒険であること、そして最后の决戦がどんなシチュエーションで行われるか、というあたりまでは、テレビシリーズを観ていればだいたい呑み込める。封切り翌日の8月5日に放映された第27话なんか、最后に「ここまで见せちゃっていいのか?」と思うくらい映画版のハイライトシーンが流されていた。エピローグにあたる第28话も、细かいところは分からないけど、ともかく色々あって、牙王をやっつけて、ハイジャック事件は解决したんだな、という程度の理解があれば、それはそれとして引き続き楽しめる。そうすると逆に、わざわざ映画を観に行っても、予想どおりの内容だし、见せ场はテレビで観ちゃったし、つまらなくはないか、ということになるが、その辺もうまくクリアしている。映画版はそういう、テレビ版の前宣伝でだいたい予想できるメインプロットに、もうひとつ、主人公である野上良太郎の子ども时代の物语を络めてあって、こっちには、うちの息子なんかあっと惊いて大喜びしたイベントが用意されている。それはテレビ版の视聴者には分からないように完全に伏せられているのだ。このあたり、やはり名手、小林靖子の技が光っている。ただそれでも、ちょっと思うのだ。今回の电王の场合、これだけテレビの话とリンクして、前宣伝を煽られると、全国でテレビを観ている少年たちは、どうしたってリアルタイムで剧场版を観たくなるだろう。実际、それがこの作品の最も楽しい観方でもある。第27话でワクワクして、映画馆に行って、「面白かったあ」と思って、次の日曜日の第28话は、その続きのお话なのである。でもね、小学生が一人で、あるいは友だち同士で行けるような「地元の映画馆」をもたない市町村が、现在の日本には、たぶん昔よりいっぱいある。长らく减少の一途をたどっていた我が国のスクリーン数は、2000年ごろから増加に転じて、昨年、全国で3,000スクリーンを越えた。しかし映画馆の数は、1960年代には约7,500馆あったのが、现在は1,000馆をおおきく割っている。现在、全国に3,000スクリーンあるうち、ざっと2,200スクリーンは、1990年代后半からぞくぞくと増えた复合映画馆(シネコン)に集中している。シネコンは郊外や地方都市にも建てられ、従来は大都市に集中していた映画人口をローカル都市に分散させた。地方の人々も、ちょっと足を伸ばして近くの町に出れば、以前より様々なジャンルの映画を选んで鉴赏できるようになった。それもおっくうなら、半年も待てば観たい映画がレンタルでリリースされる。その结果、田舎からは昔ながらの地元の映画馆が消えていった。电王が大好きな田舎の小学生たちは、剧场版が観たくって、町のシネコンに连れて行ってと亲にせがんだだろう。お父さんやお母さんはちゃんと连れて行ってあげただろうか。「どうせすぐにビデオが出たら借りてあげるから、それまで待ちなさい」なんて言っていないかなあ。まあ大人だって忙しいもんね。でも、今年はいつもの剧场版ライダーと违うんだよ。今年はリアルタイムで楽しむべきだ。それに同时上映の「モモタロスのなつやすみ」はビデオソフトにならない。ゲキレンジャーのキャラクターと电王のキャラクターが入り交じるパロディ的な短编なので、版権の都合とかあるらしい。まあきっと、こんなのは余计な心配なんだろうね。ただ私は、こういう映画なら、たとえば鬼太郎のテレビ版のブローアップや、初代ライダーのリバイバルと抱き合わせで、つまり私自身が昔、同级生たちと田舎の映画馆に诘めかけて楽しんだ「东映まんがまつり」みたいな形式で、息子にも観てもらいたかったな、とふと思って、そんなことを考えてしまいました。
5. 主役はやっぱりモモタロス话を映画の内容に戻すと、私が最も感心したのは、小林靖子が、映画版というお祭り騒ぎ(なにしろ主人公たちは、恐竜时代からエジプトのピラミッド、西部开拓时代と、様々な过去の时代を访问するのだ)や、それにまつわる诸々の外圧に迷うことなく、しっかりと电王の本筋を示して、テレビ版のファンへの仁义を通してくれたことにある。たとえばバンダイはこの7月末に、剧场版に登场する新しいライダーという触れ込みで、ウイングフォームのライダーというフィギュアを売り出している。これは普通だったら剧场版で初のお披露目という运びになるはずだ。ところが実际には、剧场版を待つことなく、テレビ版の24话で、すでにこのウイングフォームは出てきてしまう。そして当の映画では、话が半分も进んだあたりでさっさと物语から退场するのだ。それからもうひとつ、レギュラーの四つのフォームのライダーの各パーツがひとつに合体する、クライマックスフォームのライダーというのもいる。これも普通だったら映画版の最后で、満を侍して登场するはずなのだが、结局エピローグにあたるテレビ版第28话に初めて出て来る。だから映画ではまだ姿を见せない。さらに、ゲストキャラクターの登场シーンもじつにあっさりしている。芸能ニュースでは、映画版ライダーに特别出演するということで大きく取り上げられた星野亜希(ほしのあき)の千姫も、それから阵内智则の真田幸村も、本编にはほんのわずかしか出てこない。星野亜希なんか、たった1シーンに出てくるだけで、しかもそのシーンは、ヒロインのハナがこれから活跃するための前フリであるから、いわばハナの引き立て役として登场したようなものなのだ。もちろんセクシーポーズもありません。おそらくスポンサーは、夏の玩具商戦への主戦力として、新フォームのライダーが剧场版で华々しく活跃することを期待していたろうし、会社の上の方からは、白鸟百合子の事务所つながりでおさえた人気グラビアアイドルや、话题性のある吉本のお笑いタレントのゲスト出演を盛り上げるように、という声もあっただろう。しかしスタッフはそれを斥けた。なぜか。たぶん、ただでさえ剧场版ということで、様々な趣向を盛り込んだお祭り映画的性格の强いプロットに、そういう要素まで取り込んでしまうと、电王としての本筋がぶれるからだ。だから星野亜希の出番をぎりぎりまで削り、ほとんど颜出し程度に抑えて、代わりにレギュラーのハナを活跃させた。だって电王のヒロインはハナだから。そしてクライマックスの戦いは、ウイングフォームのライダー抜きで、レギュラーのライダーたちの揃い踏み集団バトルから始まり、最后は、第1话からお驯染みの、一番ベーシックなモモタロスのソードフォームのライダーと、敌のボスとの一骑打ちで缔めたのだ。だって电王はあくまでも、主人公の良太郎といつものイマジンたち、とりわけ良太郎とモモタロスの物语だからだ。そういうふうに余计なものを舍てたおかげで、この映画は、打ち上げ花火のように华やかなイベントムービーでありつつも、『电王』本来の、地の魅力を大スクリーンで再确认する作品としても成立している。あれだけ予告编的なエピソードをテレビで観せて、おおいに煽って、テレビで良太郎やモモタロスやハナのファンになったみんなを、剧场に集めたのである。だったらいちばんの见せ场を彼らのために开放するのが当然だ。これがスタッフのポリシーだったと思う。新しいフィギュアを买ってもらえた子、良かったね。でもこのお话の主人公は良太郎とモモだ。だから买ってもらえた子も、もらえなかったお友だちも、前から持っているモモタロスやソードフォームの人形を大事にしてね。だって最后にひとりで戦ったモモ、格好よかったでしょ。ほしのあきちゃんとか阵内君とか出て面白かったでしょ。でもこのお话のヒロインはみんながテレビで知ってるハナちゃんだものね。だからハナちゃん、大活跃したでしょ。これからも応援してね。私には长石多可男や小林靖子やスタッフの面々が、そんなふうに、メインの観客であるお友だちに语りかけながら、その一方で、お盆商戦で新型フォームのライダーを売り出すことに跃起になっているスポンサーや、人気タレントの特别出演で観客动员のテコ入れをしようとする上层部の安易な态度に、ひそかなひじ鉄をかましているように见えた。こういう姿势はまったく正しい。その结果が、前年を遥かに上回る兴行収益という明确な数字で示されたことも、非常に喜ばしい。ここには、実写版セーラームーンの时のような、いったいどんな视聴者层を対象としているのか、首をかしげたくなるような暧昧さはない。物语は、剧场にやって来る子どもたちの方をまっすぐ向いている。やっぱり小林靖子は変わったのかも知れない。でもそれはこざかしいマーケティング戦略とは无縁だと思う。とにかく面白い物语を语る、という変わらない路线を进んでいくうちに、ひとつ壁を突破したのかも知れないね。
6. おまけ以上が所感だが、ええい、この际だから同时上映の『电影版 獣拳戦队ゲキレンジャー ネイネイ!ホウホウ!香港大决戦 』と『モモタロスのなつやすみ』についても简単に触れておこう。いや『モモタロスのなつやすみ』は、売店にポップコーンとコーラを买いに行ったりしていたので、ほとんど観ていないんだった。なんかSD人形みたいに二头身にデフォルメされた『电王』のモモタロスが、『ゲキレンジャー』の师匠のマスター・シャーフーに泳ぎを教わってカカヅチを克服しようとするとか、そんな话だったでした。だいたいさあ、3本ぶっつづけで上映しないで欲しい。そりゃ3本あわせて100分くらいの上映时间だけどさ、子ども向けなんだから、ゲキと电王のあいだに10分くらい休憩时间入れろよ。『ゲキレンジャー』はタイトルどおり香港が舞台の、『燃えよドラゴン』のパロディ。元ネタのプロットをざっくりなぞり、最后に合体ロボットのバトルがあって、しめて36分で全部カタがつく话である。レギュラー悪役のメレと理央が、诸般の事情でゲキレンジャーと休戦、一时的に手を组んで共通の敌を倒すところがミソで、上映后「テレビで敌同士なのにあれはアカンやろ」という大きいお友だちの声が后ろの方から闻こえたが、それは野暮というものだろう。レギュラー放送の悪い奴が、剧场版では良い奴になるという、いわゆる「ジャイアンの法则」と割り切って、梦のタッグを楽しめばいいのである。実际、子どもたちはおおいに盛り上がっていた。ただ私はゲストにひっかかってしまった。インリン・オブ・ジョイトイは思った通りの役だったが、小野真弓の演ずる谜のカンフー娘が、予想していたような「香港経済を裏であやつる金融业者のイメージガール」ではなくて(当たり前だよ)、「潜入中の香港国际警察の秘密捜査官」だったのだ。それって一昔前、いや二昔前の东映映画では志穂美悦子がやっていた役である。しかも敌のボスが志穂美悦子の『女必杀拳』シリーズで悪役の常连だった石桥雅史なのだから、なおさらイメージがダブる。特撮系のみなさんは『ジャッカー电撃队』あたりなのでしょうけれど。で、そういうことなら、もう少し、あの顷の东映アクションを彷佛とさせる颜に出てきて欲しいわけだ。そうだ美希さん(伊藤かずえ)がいる。真田広之主演『燃える勇者』(1981年)のヒロインは伊藤かずえだったじゃないか。まあ薄いつながりに过ぎないが、伊藤かずえが出てくれば、それなりに「往年の东映青春アクション风味」になるのではないかな。という、もう自分でも何だか分からない理屈で、私は途中から伊藤かずえの出番ばっかり待っていたのだが、しかし今回の彼女はラストシーンにようやく出てくる。事件がすべて解决して、ゲキレンジャー一行が日本に帰ろうと空港に来たら、そこへようやく美希さんが駆けつけてくる、という一种の出オチの役回りで、つまり伊藤かずえが出たとたん、映画は终わってしまったのである。残念だ。白鸟百合子さん。完全に复调するまでゆっくりお大事に、と言いたいところだが、『电王』も终盘に入ってきたし、それに、とうとうあなたの名前がタイトルに出なかった先周のオンエアを観て、やっぱりハナのいないデンライナーは寂しいと思った。あなたがヒロインなんです。早く元気になって还ってきてください。待ってます。【订正と补足】本文中、剧场版『电王』の兴行収益について「最终的には过去最高だった2003年の『555』『アバレンジャー』(15亿円)を越える可能性も见えてきた」と书きましたが、これは、制作侧発表による「过去最高のヒットを狙うぞ」という意気込みというか、期待値の混ざった记事によるものでありました。おおむね结果が见えてきた现状の数字によりますと  2001年『アギト』『ガオレンジャー』12.5亿円  2002年『龙 骑』『ハリケンジャー』14.3亿円  2003年『555』『アバレンジャー』15.0亿円  2004年『 剣 』『デカレンジャー』09.2亿円  2005年『响 鬼』『マジレンジャー』11.0亿円  2006年『カブト』『ボウケンジャー』09.5亿円  2007年『电 王』『ゲキレンジャー』12.6亿円(9月4日现在)ということで、今年の『电王』は『555』『龙骑』に次ぐ歴代3位です。おそらく最终的には13亿の大台に乗るか乗らないかというあたりではないかと思います。订正いたします。【作品データ】『剧场版 仮面ライダー电王 俺、诞生!』 配给:东映/日公开/66分/カラー/ヴィスタ<スタッフ>制作:铃木武幸(东映)・高桥浩(东映アニメーション)・亀山庆三(テレビ朝日)/スーパーバイザー :小野寺章(石森プロ)/プロデュース:梶淳(テレビ朝日)・ 白仓伸一郎(东映)・武部直美(东映)/监督:长石多可男/原作:石ノ森章太郎/脚本:小林靖子/撮影:いのくままさお/アクション监督:宫崎刚/特撮监督:佛田洋/照明:斗沢秀/美术:大嶋修一/音楽:佐桥俊彦<キャスト>野上良太郎 :佐藤健/ハナ:白鸟百合子/桜井侑斗:中村优一/ナオミ:秋山莉奈/オーナー:石丸谦二郎/ 野上爱理:松本若菜/尾崎正义:永田彬/ 三浦イッセー:上野亮/牙王:渡辺裕之/良太郎(10才):沟口琢矢/才蔵:山口祥行/佐助:川口真五/加藤浩:松本実/野上真一:佐々木征史/野上加世子:松井凉子/野上爱理(少女时代):工藤美友里/千姫:星野亜希/真田幸村:阵内智则<中の人>モモタロス:高岩成二/仮面ライダー电王:高岩成二・佐野弥生/ウラタロス:大岩永徳/キンタロス:冈元次郎/リュウタロス:おぐらとしひろ/デネブ・仮面ライダーガオウ:押川善文/ 仮面ライダーゼロノス:伊藤慎<声の出演>モモタロス:関俊彦/ウラタロス:游佐浩二/キンタロス:てらそままさき/リュウタロス:铃村健一/デネブ:大冢芳忠/ジーク:三木眞一郎
【第108回】DVD第1巻:Act.4の巻(その2)えーと、まずは『広辞苑』の第4版より。しょ-ろう【初老】(1)老境に入りかけた年ごろ。(2)四十歳の异称 。というわけで四十になったら立派な初老だよ御同辈。月曜日は敬老の日ぢゃ。
1. 古式ゆかしき悪の组织前回『仮面ライダー电王』のイマジンについて书きながら思ったのだけれど、昔のショッカーとかって、それなりに组织がきちんとしていた。首领がいて、干部がいて、毎回、新たに登场しては倒される怪人がいて、戦闘员たちがいっぱいいたし、干部にはナチスからのリクルート组が多かったので、统率もとれていた。それに、世界征服という目的にも真剣に取り组んでいた。やっていることは、幼稚园バスをハイジャックするとか、仲の良さそうなカップルを袭うとか、首をかしげるような计画も多かったが、ともかく、最近の戦队シリーズの悪役干部みたいに最初からふざけたところもなく、マジメだったね。最近のライダーの敌侧には、组织らしい组织がない。いやクウガのグロンギとかアギトのアンノウンとか、それなりに何か组织构成があったみたいだけど、よく分からなかったし、以降の一连のシリーズも含めて、「世界征服」なんて旗印がどーんと掲げられて、そういう意志のもとにしっかり统率されている印象は、あまりない。そう考えるとダーク・キングダムというのは、クイン・ベリルという首领がいて、四天王という干部がいて、妖魔がいて、后半になると、いちおう泥妖魔という戦闘员らしきものも出てきて、けっこうちゃんとしている。ベリル様も、戦队シリーズのセクシー系干部と违って、おちゃらけは一切やらず、あくまで妖しく美しく夸り高いし、人间のエナジーを吸いとって星を灭ぼすという目标にも真剣に取り组んでいる。伟い。戦队シリーズや最近のライダーの敌より、昔のショッカーたちに近いと思う。特に原作は、かなり影响を受けているんじゃないか。原作では(アニメでもそうだが)、ダーク・キングダムの本拠地は北极のDポイント(どこかは闻かないでね)にあって、あちこちに支部がある。ベリルは世界中で银水晶を探させているのだ(推定)。で、极东支部なんて、最初はたいして重要视されていなくて、だから四天王のなかで一番ヘタレなジェダイトに任されていた(推定)。ところがセーラー戦士の登场によって、ここが戦略上、非常に重要なポイントになって来て、そこで四天王が次々に呼び出される。极东支部长 ジェダイト北米支部长 ネフライト欧州支部长 ゾイサイト中东支部长 クンツァイトジェダイトは第3话(実写版のAct.3)で、新たな戦士マーズの炎に焼かれて倒れて、次に登场したネフライトは第5话(実写版のAct.6)で、やはり新たに登场したジュピターにやられてしまう、というふうに、四天王がひとり倒されると次が登场する。だから実写版のような、四人揃ってのいがみ合いとかはない。最后の、回心した四人が揃って笑颜でマスターを送り出すシーンは原作どおりですけどね。一方、テレビ版『仮面ライダー』でも、最初は日本支部なんてほとんど重要视されていなかった。だから最初の2クールは干部さえいなくて、毎回出てくる怪人たちが指挥をとっていた。ところが仮面ライダーが顽张って、征服计画がうまく行かないもんだから、第26话でテコ入れに中东支部からゾル大佐が派遣される。でも倒されちゃって、以降、第40话でスイス支部から博士、第53话で东南アジア支部から地狱大使と、次々に新たな干部がやって来る。まあヒーローもののパターンと言えばパターンなんだけど、あんまり南半球からは干部が来ないことなんかも含めて、やっぱり武内先生は意识していたんじゃないかな。ただ、原作漫画(ダーク・キングダム篇)は、前半はいかにもヒーローものの少女漫画版みたいに、正义の味方が悪を倒す话なんだけど、后半になると、悪の组织の面々も、単纯に悪と言い切れない侧面を见せてゆく。クンツァイトは、かつてエンディミオンの忠実なしもべとして地球を守っていたころの记忆を取り戻して苦悩し、ベリルは、前世からエンディミオンだけを见つめていたのに、その爱に気づきもしてくれなかったことの哀しみと怨みを告白する。悪役たちもまた悲剧を背负っているのだ。こういう原作后半のテイストは、アニメ版ではすっかり削られてしまった。四天王が前世でエンディミオンの臣下だったことなど、実写版が出るまでは「裏设定」などと言われていたのだ。その意味で実写版は、原作のダーク・キングダムのイメージを复活させたと言えるかも知れない。とまあ、またあれこれ考えてしまいまして、今回の日记はダーク・キングダムの话题から入る。
2. 総括ダーク・キングダム:DVD第1巻さてこのAct.4で、DVDも第1巻が终わる。どうせだからここにAct.1からAct.4までの、ダーク・キングダムでのベリルと四天王の対话をぜんぶ集めて、総括的に振り返ってみよう。そういうことをするから无意味に长くなるんだけどさ。まずはAct.1、セーラームーンの初戦、渡辺典子妖魔を倒した后だ。これはベリル様ひとり。【Act.1】ベリル「谁だ、我が行く手を邪魔だてする者は?许さぬ」まあ、特にどうというセリフじゃないですね。次、Act.2。前回でセーラームーンの登场と戦いを目の当たりにしたジェダイトが、ベリルに报告に来た场面。【Act.2】ベリル「ジェダイト。セーラー戦士のひとりが目ざめたというのはまことか」ヘタレ「はい、セーラームーンと名乗りました」ベリル「あの小娘らが再びあたしの前に现れるとは…おそらくはあやつらの狙いも…よいかジェダイト、お前はいままでどおり、人间どものエナジーを集め続けよ」ヘタレ「はい」ベリル「エナジーを集め続ければ、やがてこの地球に灭びの日が访れる。最良の破灭だ」すでに第87回の「3. ダーク・キングダムの黎明」でも一部考察したが、ここでのやりとりからは、以下の诸点が読みとれる。(1)ベリルは「セーラームーンと名乗りました」というジェダイトの答えを闻いても、「そんなセーラー戦士の名前、知らぬわ」などという反応は示さず「あの小娘ら」とか言っている。ベリルはセーラー戦士をひとりひとりきちんと忆えていないようだ。だから彼女はセーラームーンの正体を见抜けず、セーラーVのプリンセス影武者作戦にひっかかった。(2)「お前はいままでどおり、人间どものエナジーを集め続けよ」というセリフで、ジェダイトが、すでにエナジー集めの活动を始めて、多少の実绩を积んでいるらしいことも分かる。でもそんなに前からではない。せいぜい2、3回といったところだろう。と书いたが、强いて根拠はない。ただなんとなく、実写版のダーク・キングダムは、まだこの时点ではそんなに本格的な活动を开始していないように思えるのだ。だって部下はジェダイトひとりだしさ。それにAct.1直前の事件を描いたビデオ『Act.ZERO』にはダーク・キングダムがぜんぜん出てこないし。まあ『Act.ZERO』は一种のおあそびだから、これをどこまで本编の解釈に使えるか、という问题はあります。でも武内直子の漫画『コードネームはセーラーV』通りだったら、『Act.ZERO』のキューティー・ケンコー一味は、実はダーク・キングダムの一味で、美奈子はかれらとの戦いを通して、悪の组织ダーク・キングダムの存在を知り、同时に前世の记忆を取り戻して戦士の使命に目ざめる、という流れにならなくちゃいけなかった。そうなっていないってことは、実写版の世界は违うって意味なんだと思う。つまり、このころまだベリルは、ようやくダーク・キングダムを旗扬げして、手始めにジェダイトを使って活动を始めたばかりのところだった。そういうことにしておいてください。(3)ベリルの野望は「やがてこの地球に灭びの日が访れる。最良の破灭だ」というセリフで示されるが、そうすると、最初は地球を手に入れることではなくて、すべてを破灭に导くことを望んでいたようだ。でもFinal Actを见ると、必ずしもそうでもないみたいだし、よく分からない。最初は破灭を望んでいたが、エンディミオンを见つけた时点で、エンディミオンを手に入れてこの星を支配したい、という気持ちに変わっていったんだろうか。(4)こっちよ!さんからコメント栏でご指摘いただいて気づいたが、ここでのベリルはまだ「あの小娘らが再びあたしの前に现れるとは」と「あたし」という一人称を使っている。それが次の回になると「わらわ」に変わる。Act.3、歴代の火川神社の巫女たちを拉致しているジェダイトが、报告に现れる场面。【Act.3】ヘタレ「もうすぐ集まります。圣なる少女たち七人。やつらからしぼり取れるエナジーは、最良のはずです」ベリル「しくじるなよ、ジェダイト。わらわもそう寛大ではない」で、问题は、Act.2の「あたし」(もしくは「私」)は、単に制作サイドによるセリフのチェック忘れというか、ケアレスミスと考えていいのか?ということですよね。そうかも知れない。でも小林靖子は、このドラマで呼称にはかなりこだわっている。たとえば第2回で取り上げた通り、うさぎと卫が互いをどう呼ぶかという问题についても、すでにAct.1で、その后の展开に向けて最初の布石が打たれていた。そういうことを考えると、ここでも意図的に「わらわ」でなく「あたし」と书かれた可能性を考えておかなきゃいけない。とすると、どうなるか。
3. 「もう良い。女王様あそびは终わりだ」(Final Act)だいたい、キングダムだクインだといっても、前世からプリンセスだったうさぎと违って、ベリルは前世ではただの贫しい身なりの娘だった。ダーク・キングダムなんて悪の帝国は、前世に存在していたわけでもなくて、ただベリルが、前世で地球の王子の配下だった四天王を、自分の手もとに置いて、ゴージャスな女王のコスプレをして、女王様ごっこを楽しんでいるだけなのだ。杉本彩がハマリ过ぎていてそうは见えないが、ベリルの、あのいかにも威厳に満ちた振る舞いや「わらわ」という话し方は、四天王たちに自分を「女王」として认めさせるために、后から苦労して身につけたものである(推定)。けれども四天王は、一人のヘタレを除いて、内心では谁も、彼女を真の女王とは认めていなかった。いやネフライトはそうでもないかな。とにかく、だからみんな最后には离れていった。Final Actで、何もかも崩壊してゆくなか、ベリルがつぶやく「女王様あそびは终わりだ」というセリフは、文字通りの意味に受け取らなくてはいけない。これは游びだったのだ。そして、术を解かれても离れようとしないジェダイトに「お前は愚か者だな」と言いながら手を差しのべたと}

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